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歴史遺産の保存継承は次世代への責任 地域おこし新事業スタートへ |
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自治省自治大臣官房企画室企画官 |
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古川 康 |
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1.日本に仏教が伝来したのは何年のことでしょう?
その昔、中学校や高校で日本史を習ったとき、「西暦五三八年」とたしか教わった。ところが、今の教科書には「五五二年」とある。歴史的事実というのは動かないものかと思いきや、そうではない。新たな発見によって歴史的事実は塗り替えられていく。
いい例が岩宿遺跡(群馬県)であろう。日本考古学史上の最大発見とも言われるこの岩宿遺跡の発見者は、当時行商で生計を立てながら考古学の研究を続けていた相沢忠洋氏であったが、これが発見された昭和二十四年より前に日本史を勉強した人は、「日本には縄文時代に先立つ時代には、人間の歴史はなかった」と習っていたのだ。
岩宿遺跡が発見された二十四年以降にしても、直ちにこのことが学会の通説になったわけではない。無名の青年が発見したということでなかなか認められなかったというあたりは、「星の王子さま」に出てくる星の発見者と似ている。それは、新しい星を発見したのに、その人の着ている服がぼろぼろだったので、認められず、新しい服に着替えて発表したらみんな納得した、という話だ。同じことが岩宿遺跡の発見時にもあった。岩宿遺跡の存在が学会で常識化するのに十年はかかったといってもいいだろう。しかも、それが定説化するや、いまでは全国に三千以上の岩宿遺跡と同じような、先縄文時代の遺跡が発見されているのである。
2.縄文時代に稲作はあったか?
岩宿と同じことがまた、起きているかもしれない。
僕らの習った教科書では、「弥生時代に入ってから本格的な稲作が始まった」とあった。
ところが、いまや縄文時代に本格的な稲作があったと考えても不思議ではない、という周辺事実が次第に出てきつつある。稲作文化は大陸から渡ってきて、西日本に早く入り、それが時間をかけて東進し、東北地方には比較的遅く到達した、というのが定説だったし、今も基本的にはそうだろう。しかし、一九九五年の青森県の三内丸山遺跡の発見や新潟県奥三面遺跡群など、稲作証拠はないけれど、この地域における文化程度は従来考えられていたよりも相当高いのではないか、との見方も広がっている。
かつて、藤森栄一氏のように、早くから縄文農耕論を唱えていた方もおられ、佐賀県唐津平野を中心として、縄文晩期には農耕が行われていたことについては、ほぼ定説と言っていいのだろうが、新しい発見によって縄文時代とはなんだったのか、ということが変わる可能性がある。
高校生たちは、古い参考書を使っていたのでは歴史の問題で何点か損するかもしれないのだ。
3.地方公共団体と遺跡とまちづくり
吉野ヶ里遺跡や、三内丸山遺跡などは、ここ十年以内の発見である。そしてそのことが考古学者だけでなく、一般の関心も呼んでいる。去年には、奈良県の黒塚古墳から多くの三角縁神獣鏡が出土し、また、キトラ古墳では極彩色の強い壁画が発見され、この公開にも寒風の中、三万人もの人が来た。
最近、銅剣や銅鐸が相次いで見つかった島根県でも、古代出雲文化展には四十四万人もの人が詰めかけた。
出雲における銅剣、銅鐸の発見は、これまで単なるお話に過ぎないとされていた出雲神話が史実の裏打ちを予感させるようなものになっている、という点でこれまた画期的なのだ。
後のページで紹介がされるけれど、宮崎県における西都原古墳群の存在というのも大したものである。
これまでにも国、県、そして地元によっていろいろな整備がなされてはきたが、このたび県では、リーディング・プロジェクトの指定を受け、「西都原古墳群およびその周辺整備プロジェクト」として西都原古墳の周辺整備に乗り出すこととなった。これも遺跡を生かした新たな動き、ととらえることができるだろう。
このような遺跡、史跡はもう一種のテーマパーク化しているといってもよい。飾り立てられたニセモノよりも、素朴な本物のほうがより想像力を駆り立てられるのかもしれない。
4.あなたの住む地域にもネタがあるかも!
それほど派手ではないけれど、三内丸山遺跡と同じ、青森県の市浦村にある十三湊(とさみなと)遺跡は中世の遺跡として注目を浴びているし、鹿児島県の上野原遺跡などもきちんと調べたうえでまちづくりに活用しようという、積極的な取り組みの地方公共団体が増えてきている。
こういう地方公共団体はどのような経緯でそのように取り組んでいるだろうか。さきほどみた奥三面遺跡群のある新潟県岩船郡朝日村を例にとってみてみよう。
ここは昭和四十二年の羽越水害で新潟県下に大きな被害があったことから、県営の奥三面ダム建設が決まり、三面集落が移転することになった。
この地域では、それまでも土器の破片があちこちから発見されていたこともあって、「ダムに沈む」ということであれば、この際、きちんと調査をしてからということで、調査が開始された。昔から遺跡があることは分かっていたもののどれくらいのものであるのか、発掘当時は知る由もなかった。それが発掘が進むにつれ、そのスケールの大きさが次第に明らかになってきたのである。
専門家によれば、奥三面遺跡群の特徴を一言で言えば「石の文化」であることだという。現地説明会の資料にも「調査は石との戦いです」とあるほどだ。
こうした遺跡群がダムの完成とともに湖の底に沈むのは残念だという声もあるが、逆にいえばダム建設なくしてはこの遺跡群は発見されなかったわけである。また、原因者負担ということで、発掘の費用はすべて県負担であるが、ダム完成後はそのインフォメーションセンターの一角にこの遺跡群のことを紹介するスペースを設けることも検討中であると聞くし、朝日村でも、この膨大な出土品を時間をかけて整理し、村全体の歴史、文化を含め、一般に公開するよう、構想をまとめているところである。
移転した三面集落は、マタギの方の住む古くからの集落であったという。長年住み慣れたところから移転せざるを得なかった方たちのことを考えれば、大変なことであったと思うが、こうしてその生活の跡が大きな財産として認識されてきているということで、多少ほっとする部分もある。
最後の現地説明会には、雨の中ではあったが、全国から一日で五百人を超す見学者が訪れたという(平成十年十月三十日付け朝日新聞)。
このほか、最近出た『アサヒグラフ』(昨年十二月二十五日号)に掲載されている各種遺跡の発見の“きっかけ”をみてみても、表のとおりである。何かの工事を実施する際に発掘したというものばかりだが、こうしたことをどう生かすかはまさにこの雑誌の読者の努力いかんにある、と言ってもいいぐらいなのだ。
このように遺跡の出たところでは、それを生かした取り組みが始まっている。そして、最近話題になった、ここで紹介したいくつもの遺跡は、いずれもそれまでほとんど見向きもされなかった地域や事柄だった、ということに注目していただきたい。そういうこととは無縁だった地域にも可能性がある、という意味で、あらゆる地域においてロマンを秘めているということが言えるのではないだろうか。
自分たちの足下にも、実は大きなものが潜んでいるかもしれないのだ。「爺さんのたわごと」と思って片づけていた言葉の中に、大変な発見があるかもしれない。三重県多気郡明和町の坂本古墳群1号墳から平成九年の年末に金銅装の頭椎大刀(かぶつちのたち)が出たとき、地元の坂本人は「やっぱり出たか」と思ったという。坂本には「金の鶏が出てきて繁栄する」という言い伝えがあったのである。また、先にも述べたように、島根県では銅剣や銅鐸が相次いで見つかっているが、これは単なるお話に過ぎないとされていた出雲神話が史実の裏打ちのあるものだ、ということにつながるかもしれない。
各種遺跡の発見のきっかけ
『アサヒグラフ』(平成10年12月25日号)に掲載されている記事を基に、筆者が作成
| 北海道礼文町 船泊遺跡 | 自衛隊官舎建設 |
| 青森県野辺地町 有戸鳥居平(4)遺跡 | 道路建設 |
| 岩手県一戸町 御所野遺跡 | 工業団地造成 |
| 埼玉県吉見町 三ノ耕地遺跡 | 県営圃場整備 |
| 滋賀県守山市 下之郷遺跡 | 道路計画の事前調査 |
| 京都府舞鶴市 浦入遺跡 | 湾の埋立工事 |
| 大阪府茨木市 目垣遺跡 | 高圧線鉄塔工事 |
| 奈良県大和高田市 池田遺跡 | 福祉施設の建設 |
| 奈良県田原本町 羽子田1号墳 | 民間アパートの建築 |
| 島根県松江市 西川津遺跡 | 河川改修 |
| 高知県土佐市 居徳遺跡 | 高速道路建設 |
| 長崎県郷ノ浦町 車出遺跡 | 県営圃場整備 |
| 鹿児島県垂水市 柊原遺跡 | JRの線路敷後の工事 |
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