
|
|
|
|
ふるさと幻想 |
|
社団法人地方行財政調査会事務局長
|
|
芦崎 徹
|
|
|
「君は行方不明者になっているぞ」。
中学時代の友達から電話が入った。卒業以来音沙汰ないので、創立五十周年記念名簿から漏れてしまうというのだ。これも身からでた錆のようなもので、四十年余のわが身の不明を恥じるばかり。
一片の白雲に誘われるように、夏の某日思い出の地へ旅立ったのは、そんな一本の電話がきっかけでもあった。
久保栄の「火山灰地」の舞台にもなった所といえば、演劇好きの人なら、思い出されるかも。帯広市から三キロほど離れた音更町の鈴蘭地区。そこが私の「ふるさと」である。中学校のある高台に立つと、眼下には十勝川がゆったりと流れ、雲海を切り裂いて日高山脈の連峰がはるかに浮かぶ。スズランの花があちこちに群れ咲き、おびただしい柏葉が風に鳴るのを鮮烈に覚えている。
戦後間もなく、鈴蘭地区には兵舎や倉庫を改造した引き揚げ者の収容施設が何棟も建った。ベニヤ板で仕切られた小部屋に数人の家族が暮らしていた。
この辺りは豆、麦、ジャガイモなどの豊かな産地で、行く当てない引き揚げ者や戦災者の足をこの地に向かわせたのは、「食いつないでいける」との、薄氷を踏む思いだったろう。私は六年間ここにいた。
住民の多くは、極度の窮乏生活と、厳しい寒冷地ならではの多くの困難に出遭い、呻吟し、それぞれに趣を異にした不幸を抱えていたようだ。
鈴蘭を訪ねた日、糸のような雨が馬鈴薯の薄紫の花を濡らしていた。
深いしわを頬に何本も刻んだ、人なつっこい顔をほころばせながら、節くれだった手で酒をついでくれる農夫の友と、思い出話に花が咲いた。零下三十度を超える寒さに震え地吹雪に身をこごめながら通学したことや、朝礼のとき天井の梁にできた雀の巣からひなが生徒の頭上に落ちて一騒動あったこと、補習授業をさぼって銭湯へ行って大目玉をくったことなど、どちらともなく話を引き継いで、夜は更けた。
ふるさとの空気はあったかい。でも、この台地の様子は、根こそぎ変わっていた。私の頭に満ちあふれ、心を揺さぶり続けてきた懐かしい風景は、校庭とコンクリートのひとつの塔を除いて消えていた。
目の前には、赤、青、緑など色とりどりのしょうしゃな住宅がぎっしり立ち並び、帯広市のベッドタウンとして発展していた。幅広い道路が走る。人びとの顔は明るい。変わりやすきは世の常とはいえ、ふるさとの移り変わりに触れる農夫の友の口調は時にしずみ、ひとしおの感慨があるよう。いわば今浦島の私は、ほろ苦い喪失感を味わっていた。
安政五年三月、(鈴蘭の高台辺りの)原野に踏み入った探検家の松浦武四郎は「このあたり馬の車のみつぎもの御蔵を建てて積ままほしけれ」と歌っている。この地方(十勝)一帯は、将来、肥沃な土地になり、たくさんの収穫があるだろうと占ったものだが、そのとおりになった。が、さて武四郎殿、今日の変貌ぶりまでは予想できなかったろう。
あの土地には裸の人間の触れ合いがあり、悲哀に満ちた生きざまがあった。そして、それを描くことは、つまり戦争のおぞましさを伝えることにもなろう。
「ぜひ書いてみよう」
私は、かけ出し記者のころから思い続けてきた。思いは膨らむものの、不精者の悲しさか、未だにペンを執れないでいる。

●12月号の目次へ