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岩手県田野畑村 「第二故郷」と体験学習生 5万8千人が訪れる |
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田野畑村企画総務課企画係主任 |
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畠山淳一 |
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ここに一冊の本がある。タイトルは『いつか…田野畑』。B5判、三百三ページ。裏表紙には「学ぼう田野畑、感じ取ろうぬくもり、晴れろ田野畑、第二の故郷」と添えられている。東京都西多摩郡日の出町立平井中学校の生徒たちが作った、修学旅行の報告書である。田野畑村が行っている体験学習の受け入れは、この平井中学抜きには語ることができない。
村の第三セクター「ホテル羅賀荘」が本格的に修学旅行の誘致に乗り出したのは、昭和五十九年ごろからである。それまで一般的だった神社仏閣巡りの“観光”旅行に対抗し、定置網漁の見学やバター作りなどができる体験型として特徴付けた。
時間は約百二十分。数十人から百人を一グループにし、漁業、林業、農業合わせて十一のコースを用意した。首都圏や北海道からの中学校を中心に、毎年コンスタントに十数校ずつ、三千〜四千人の生徒たちが村で一次産業を体験している。
手探りで始めた試みが軌道に乗り始めたころ「小人数のグループごとに各地区の家庭に入らせたい」という学校が現れた。盛岡市の岩手大学付属中学校である。羅賀荘の職員が村内を駆け回り、受け入れてくれる家庭をようやくそろえた。生徒たちは朝から晩まで作業を手伝いながら、「本物」の労働を体験して帰ってゆく。この付属中学の体験学習は三年ほど続いた。
昭和六十一年、前出の平井中学の先生が村の修学旅行受け入れのパンフレットを目にした。体で感じる旅をさせたいと考えていたイメージに、ぴったり一致し、内容を確認するため十人ほどが来村した。先生たちは説明の中で、パンフレットに載っていない付属中学の話を聞いた。当然のように家庭での体験作業のほうを選び、翌年から平井中学の修学体験旅行が実現した。
当時、平井中学に勤務していた鈴木斉教諭は次のように語っている。
「最初は、ただ一次産業の労働体験をさせたいという思いで来た。でも、毎年受け入れてくれる家庭で指導してもらっているうちに、目標がどんどん変わってきた。労働の方法よりも、おじさんやおばさんたちとの触れ合いから、もっと大事なことを学んでいるのではないかと気が付いたから。その時点から、人との出会い、触れ合い、そして人生観、職業観を学ぼうという目標になった」
先生たちは「日中だけではなく、一泊させてもらいたい」と考えるようになった。六十三年の夏休みに数人が来村し、四十以上の家庭をお願いして歩いた。そのかいあって、翌平成元年の三回目から一部生徒の民泊が始まった。民泊させる家庭は、毎年確実に増えていった。数年後には、二百人余りの生徒全員が民泊も体験できるまでになった。
この間、村の受け入れ態勢は順調に整っていった。昭和六十三年に「体験学習受け入れ団体等連絡協議会」を設立し、作業を指導する心構えや方法を勉強する研修会を開催している。
しかし、問題がなかったわけではない。「けがをさせたらどうする」「子供の体験ごっこに付き合っている暇はない」「後始末のほうが大変だ」。いろいろな心配や反対意見があったと聞く。
実際に各家庭で受け入れてみると、そんな心配は無用だった。平井中学の生徒たちは、一年生のときから田野畑に来る準備をしていた。村民以上に村のことを詳しく調べ上げ、足手まといにならないようにと学校の周辺で作業訓練も行っていた。こうなると心配なのは、逆に農林漁業者のほうである。
「これは何なの?」「どうしてこうするの?」「おじさんはどんな信念を持って仕事してるの?」
子供たちにうかつなことは話せず、冷や汗をかきながら、だんだん真剣に接するようになっていく。「自分のこと、村のことを見つめ直すようになった。平井中学の生徒たちから、反対に勉強させられているようなものだった」
作業の内容は、各家庭に任されている。特別に用意した仕事ではなく、日々行っているごく普通の作業をさせている。海のない日の出町の子供たちにとって、人気はやはり漁業の仕事だったようだ。ワカメやコンブの加工作業、刺し網、タナゴ漁などなど。小船を出して操船させたり、海底をのぞかせたり、いそでツブを拾わせたり。
夕食の食卓には、その日とれた物がそのまま並ぶ。質問責めは入浴後も続き、調子に乗って夜遅くまで人生を説く「困ったおじさん」も出現した。ふだんは口数少ない人たちだが、「子供や孫が増えたようなうれしい気持ち」がそうさせたのではないかと思う。
こんな平井中学の体験学習も、六年で途絶えた。学校が週五日制となり、訪問準備に時間が取れなくなったことが主な理由だと聞いている。残念ではあるが、八回も続いたのが不思議なぐらいの取り組みだった。集団での体験学習を希望する学校は現在も後を絶たないが、何か物足りない気分で受け入れ続けている。
この事業は、村民と都市部の生徒たちが、交流によってお互いに良い影響を与え合うことを主目的としたもので、経済的な効果や後継者の確保を期待したものではない。それでも、これまでの十三年間で延べ約五万八千人が村を訪れ、ホテル羅賀荘の売り上げにも寄与している。また、受け入れ家庭への手当などにより、農林漁家の副収入確保にも役立っている。
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