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福井県今立町 小さな実験、和紙による現代美術 評価され始めた紙展 |
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今立町今立現代美術紙展実行委員会 |
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沢 兵栄 |
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一九七九年十一月に「紙展」が始まった。きっかけは、世界放浪の後、町の分校跡に住みつき、地域の若者たちと現代美術や陶芸・舞踏などさまざまな運動を展開した現代美術作家・故河合イサム氏に起因する。
手すき和紙生産日本一の越前和紙の里で、生産過程で不良品となる損紙を見た、河合氏は若者たちに作品への活用を提案した。そのとき、すでにガンで闘病していた河合氏への励ましを込め「第一回現代美術今立展・紙の実験室」を開催した。
しかし、翌年一月、河合氏は帰らぬ人となり、その遺志を継ぎ「現代美術と和紙との連携をテーマ」に今日まで紙展を開催している。
これにより、地元の紙すきに携わる人びとと作家たちとの交流が始まった。全国の作家が和紙の工場を訪れ、作品制作の素材探しや和紙の特性について研究し始めた。
また、和紙に携わる人びとが展覧会を訪れる数も次第に増え、手すき職人の中に、和紙を生かした作品を制作し、公募展に出品する人も出始めるなどさまざま動きが始まった。
七九年から九六年の十四回展まで、過去二年だけ休んだ以外は、毎年開催してきている。企画運営の推進母体は、河合氏やともにリーダーであった八田豊氏たちと現代美術活動をすすめてきた青年たちだった。
過去十四回の紙展を振り返ると、当初はかなり厳しい財政運営で、借金返済のため、実行委員がさまざまなアルバイトをしたことが何度もあった。しかし、中盤以降から町の積極的な支援を得て、開催基盤の充実が図られた。
さらに九一年、第十二回展のときに展覧会場となる町立の「いまだて芸術館」が完成し、運営全般で支援してもらえるようになってから、展覧会場の質的向上に加えて事務局体制もレベルアップしていった。
紙展開催当初は、地域の人びとの理解を得ることが難しく、展覧会に訪れる人びとも少なく、さらに展覧会を見た人びとから「こんなわけの分からない展覧会に町が助成をするなんて」などと言われたこともあった。
回を重ねるたびに、次第に地域の理解も得られ、またマスコミの積極的な支援により大々的に記事として取り上げてもらい、理解を深めていった。
九五年に開催の紙展は、応募二百三十七点、応募作家国内百六十八人、海外十七カ国・五十五人で、海外作家の応募は前年の三倍となり、過去最高を数えた。これは、その年に京都で日本紙アカデミー主催の「世界紙シンポジウム」から絶大な支援を受け、世界各国にPRが行き届いたことが大きな要因となった。
難波英夫さん(東京・セゾン美術館館長)、樋田豊次郎さん(東京国立近代美術館主任研究官)、そして初の海外審査員のジェーン・M・ファーマーさん(アメリカ・フリーキューレーター)によって厳正な審査が行われ、入選八十点が決定し、十月展覧会が開催され、来場者は三千人を超えた。
紙展は大賞(賞金百五十万円)、準大賞(賞金五十万円)、特別賞三点、優秀賞五点を用意している。大賞は東京の服部俊弘さん、準大賞はアルゼンチンのホルヘ・ルイスさんだった。なんと八十点の入選の中で、半分ほどを海外作家が占めることになり、関係者に驚きを与えた。
滞在型の実験展とワークショップで、和紙職人と作家の交流はすすむ。手すき工場約五十軒、機械すきを合わせ約百軒の工場のなかで、積極的に和紙を提供してもらえるところの支援を受け、今日まで五回のワークショップを開催している。
公募や選ばれた国内外の作家が、今立町に一週間から十日間滞在して、和紙や他の素材をもとに作品を一気に作り上げる。また、この製作は広く公開されているため、訪れる町民たちと作家の交流も行われる。製作された作品は、小さなものから五メートルを超えるものまでさまざまである。
このあと、「東京展」が開かれ、十二日の期間中、約千人が訪れ、マスコミにも報道され、今立町の小さな実験がPRされた。総事業費は平均年間約一千二百万円となっている。
伝統的な手すき和紙産地としてのイメージに現代美術が加わり、訪れた人びとに少なからず、新しい動きを伝えたことと信じている。紙を素材とした展覧会として、歴史もあり、応募数も定着の兆しをみせ、現代美術の分野では少しずつ評価を受け始めている。
今後は、和紙の里で開催する意義を最大限に生かし、作家との有機的交流が図れる実験的ワークショップや国内外で活躍し、紙を素材とした現代美術作家の企画展など、展覧会の質を問う展開が必要となっている。
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