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昔語りの火種を消さないために

テレビ・記録映画監督 人間の足跡をたどる会

榛谷泰明

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昔話との出会い

 「とんと昔あったげな」とか、「昔(むがす)あったづもな」という語り出しで始まり、「どんどはれ」とか「いちごさかえた」とか「昔こっぽり」という語り収めで終わる昔話(民話)に出会ったのは、昭和四十八年のことである。
 当時、私は俳優の山口崇さんたちと一緒にFM東京と大阪で、ディスクジョッキーふうのラジオ番組を作っていた。その折、スタッフのひとりが旅先の東北地方で録音したテープをスタジオに持ち込んできた。再生してみると、老婆の声が流れてきた。しかし、何を話しているのか、聞き取れない。それが東北弁で語られた昔話(むかしっこ)だったのだ。語り手は明治三十一年生まれのおばあさんであった。
 何回か聞き返しているうちに、話の内容が絵本などでおなじみのお伽噺に似ていることが分かってきた。私は北海道生まれなので、東京弁に近い言語環境で育ち、幼児期に年配の人から昔話を聞いたことはなかった。三十八歳、やっと昔話と対面したわけである。ちょっと聞いただけでは何を言っているのか分からない言葉、しかしそれはまぎれもない日本語……、新鮮な驚きであった。文化(カルチャー)ショックと言ってもいい。
 さっそく昔話のことを調べると、次の事柄が判明した。
(1)昔話は、親から子へ、子から孫へと伝承されてきた。
(2)口承のため文献的には不明だが、幾十世代、幾百年と受け継がれてきたものもある。
(3)テレビの普及以前、一家だんらんの中心をなしたのが昔話であり、幼児のかけがえのない娯楽、かつ教育であった。
(4)幼児期に覚えた話を、自分が孫たちに語る年齢に達したとき、暗記したままの言葉遣いで語る。
(5)経済の高度成長時代、昔話の場である囲炉裏が消えはじめ、核家族化が進み、家中の者がテレビに顔を向け、年寄りの話を聞かなくなった。
(6)現存の語り手が他界した後、方言で昔語りができる人はいなくなる。
 以上、昔話は私たち日本人の貴重な文化遺産であるにもかかわらず、消滅の危機にあることが分かって、私たちは昔語りの肉声を放送しようと決めた。
 方言は他地域の人が聞いたのでは、何を言っているのか理解できないことがある。けれども、同じ日本語であるという点では、変わりがない。多少聞き取りにくくても、日本の言葉に違いないのだからと、私たちは語り手の声を毎週必ず電波にのせることに踏み切った。
 それ以来、ラジオの取材と「現地録音・日本の昔話」というレコードの取材で、北は青森から南は沖縄まで、語りべを求めて、各地を経巡(へめぐ)ることになった。
 ラジオ番組は、昭和五十三年に終わった。が、その後、拙著『とんと昔メルヘン』シリーズの執筆や、昔話の映像による記録保存の準備をふくめて、私の個人的な昔話取材の旅は今日に及んでいる。その間、約三百人の語りべから、二千話余りの昔話を聞いた。二十分以上かかる長い話、三分以内の短い話、語り手によって、まちまちである。また、同じ話でも、地方によって語り口調が異なり、さまざまな変化形(バリエーション)があって、取材の日々は新しい発見の喜びにあふれていた。
 最初は聞き取りにくかった方言も、何回かその土地を訪れ、語り手の家に泊めてもらい、家族共々歓談しているうちに、少しずつ理解できるようになった。

動植物との共生

 ここで、昔話と民話、この二つの言葉を整理しておく。
 民話は、民間伝承説話の略、新規の言葉である。民話には伝説と昔話がふくまれている。伝説は、それが語られている地方の人びとに実際にあったことと信じられている話である。伝説では、時代・場所・人物が特定されている。
 一方、昔話は、昔ある所に爺と婆が……というふうに現実性をぼかして語られる。いわば虚構(フィクション)の世界である。昔話では、しばしば動物が主人公になる。「カチカチ山」や「猿カニ合戦」などが好例である。「舌切雀」は人と動物が交流する話である。「狐にだまされた話」では人間よりも利口な動物が登場する。これらの昔話に共通しているのは、人と動物が同じ次元に生きているという教えだ。
 次にごく短い話をひとつ。新潟県長岡市の下条登美さん(明治三十七年生まれ)から、昭和五十二年に聞いた「月見草の嫁」を紹介する。

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 あったてんがのう。
 昔あるとこに、一人者(ひとらもん)の若い馬子(まご)があったてんがのう。馬子は、いつも朝げ早う起きて、山へ秣(まぐさ)を刈りに行って、いい声で馬子唄を歌いながら、草を刈っていたてんがのう。その声が、なんじょうにか、いい声だったてんがのう。ほうして、その刈った草を背負(ぶ)て来て、馬に食わせて、馬を引っぱって、お客を乗せて、暮らしていたてんがのう。
 ある晩げ、一日の仕事を済(おや)して、家へ帰って来て、一人者(ひとらもん)だんだんが、
 「はて、これから夕飯をして食わねばならんかの」と思って、一服していたてんがのう。ほうしると、そこへ、いとしげな娘(あね)さが来て、
 「今晩一晩、どうか泊めてくれ」と言うたてんがのう。
 「おらこは、おら一人(ひとら)で、お前を泊めるたって、ろくな飯(まんま)もしてやらんねすけ、泊めらんね」
 「なに、飯ぐらい、おらが為(し)るすけ、どうか泊めてくれ」と言うて、もう掃除もしてくれ、ばたばた働いて、夕飯もしてくれたてんがのう。
 ほうして、今度(こんだ)、その娘(あね)さは、
 「お前は一人者(ひとらもん)で不自由だろうすけ、おらを嫁にしてくれ」と言うんだんが、馬子も、
 「そうか、お前がその気だば、なじょうも、おらの嫁になってくれ」と言うて、その晩から、二人は夫婦になって、幸せに暮らしたったてんがのう。
 ある朝、馬子はいつものように歌いながら、山の草を刈って来て、馬屋へ草を投げ込んでやったてんがのう。ほうしたれば、その草の中に、月見草のきれえな花が一本あったてんがのう。
 「おお、こらまた、きれいな花がまじっていたな」と言うて、手に取ってみて、
 「おうい、かか、月見草のきれいな花があったや。お前も見れや」と、呼ぶども、いっこうに返事が無(ね)えてんがのう。
 「おうい、かか、家にいねぇがらか、どっかへ行ったかや」と、そこらを見たら、妻(かか)は流しの所(どこ)で倒れていたてんがのう。
 「どうした。どこか具合(あんばい)でも悪いか」と、側へ行ったれば、妻(かか)は細い声で、
 「おらは毎朝、お前の馬子唄のいい声を聞かせてもろうて、あんまりいい声だんだんが、こんげないい声の人の所(どこ)へ、嫁に行ぎたいと思ていた。その思いがかなって、これまで嫁にしてもろうていたども、おらは、お前が今朝、刈って来(こ)らった月見草の花の精で、刈られてしまえば、おらの命はこれまでだ」と言うて、死んでしもたてんがのう。
 それで、いきがポーンとさけた。

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 最後の一言は、越後の昔話によくある「いちごさかえた」という結句の変形である。この昔話は、植物と人は同次元に生きていて、植物にも人間と同じような感情や意識がある、ということを教えていると思う。

語り文化の復興

 人と植物の交流で想い出すのは、岐阜県の揖斐川最上流の徳山村にすんでいた語りべ、増山たづ子さん(大正六年生まれ)のことである。初めて出会ったとき、彼女は揖斐川の対岸に生えている柞(ほうそ)の古木を指して、「あの木は私(いら)の友達じゃ」と言った。
 「あの木は喋るんじゃ。私(いら)に悲しいことがあると、慰め、励ましてくれるし、困って相談すれば、教えてくれるんじゃ」
 今から二十年以上前のことである。当時の私には「木が喋る」ということを素直に受けとめることはできなかった。彼女が私をからかって言った、というくらいにしか思っていなかった。
 ところが、その後、アメリカの嘘発見器の検査官、バクスター氏が嘘発見器のコードを植物に取り付けて実験をした結果、植物にも人と同じ感情があることを発見した、という記事を読んだ。同様の実験は種々行われて、古木には感情だけではなく、意識や洞察力があることも解明された。増山たづ子さんは本当のことを告げていたのだ、と悟った。
 増山さんのふるさと徳山村は、ひと昔前になくなった。日本一大きなダムを建設するという名目のもとに、村民全員が立ちのかされ、廃村になったからだ。村名も地図から消し去られた。旧徳山村にいたいく人かの語りべたちは、揖斐川のはるか下流の市や町への移住を余儀なくされた。ふるさとの囲炉裏の火種は、ことごとく消されてしまった。そして、ふるさとの山野の樹木は、ダムという「大義」のために、多くが伐り倒された。
 伐られる樹木の悲鳴を、伐る立場の人びとは聞いただろうか。増山さんには、樹木の慟哭が聞こえていたはずだ。いや、彼女だけではなく、幼児期にお年寄りから、人と動物と植物がともに等しく生きている昔話を毎晩のように聞き育った人たちには、樹木の痛みをわが事のように感じたに違いない。
 昔話は語り手と聞き手の対話だ。語りのひとくぎりごとに、聞き手は相づちを打つ。相づちがなければ話は続けない、と語り手の誰もが言う。昔話を介して、一種のスキンシップが行われていたわけである。現今、幼児たちはテレビという一方通行の媒体(メディア)を相手に成長している。幼児の情操育成にとって、スキンシップの大切さはつとに指摘されているところである。お年寄りとの交流もないままに、テレビで育つ子供たちがどんな大人になるのか、気にかかる。
 私たち「人間の足跡をたどる会」(伊藤敬重事務局長)ではいま、消えかけている昔話の「語り」を映像で記録保存しようとしている。日本の口承文化の永久保存である。ただ、全国各地の語りべと昔話の背景をなす世界を映像化するには、一年以上の取材期間と数千万円の費用が要る。その資金調達が目下の最大難事である。
 方言による昔語りは、語りべの消滅とともに消え去るであろう。それは仕方のないことである。しかし、声によるスキンシップの重要性を自覚した各地の母親たちは、幼児への「語り」を復興させようとしている。毎年一回開かれる「昔話を楽しむ九州交流会」も、その機運の顕れであろう。九州各県が回り持ちで開催する「交流会」は、熊本が昨夏の主催県だった。会場には大勢の母子が集まり、交流を楽しんでいた。こうした催しの盛況を見るにつけ、農山村の囲炉裏の火種は消えたとしても、「語り」の文化への人びとの熱い思いの炎は決して消えてはいないのだ、と痛感した。
 新しい世紀を迎えるに当たって、私たちの原郷ともいうべき昔話に多くの方々が関心を抱いてくださることを切望している。


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