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まちづくりをプロデュースした仕掛人 特異な経営センスで輝くまちに |
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まちづくり学会代表理事 |
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川瀬光一 |
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「日本一を生かしたまちづくり」において、最も大事なことは、まちづくり・まちおこしを仕掛けたいわば「都市文化の仕掛け人」が、初めにどのように企画し、実践し、成功へ導いていったか、ということである。
二十一世紀は、地域・まちづくりを仕掛けた人たちがもっとスポットライトを浴びなければならないということだ。
市民、専門家、行政が協働してまちをつくることが求められている今日、「まちづくりプロデュース」のできるヒトの存在が重要となっている。
ここでは、日本の昭和三十年代以降の地域・まちづくりの成功事例と、その担い手たち─まちづくりプロデューサー─の役割を探りつつ、日本一の都市・まちづくり物語のあらましと、仕掛け人ベスト6を述べよう。
日本一のまちづくりと仕掛け人 best6
1─小樽のまちづくりと小樽運河保存運動
小樽は、今や日本有数の“叙情観光都市”である。商都小樽が札幌の外港として栄え、小樽運河は昭和初期に完成している。昭和四十年に運河を埋め立て、道路建設という行政の決定がなされた。
同四十八年、峰山富美さんを代表とする市民たちによって、「小樽運河を守る会」が十年にわたって全国の世論を沸きたたせた小樽運河保存運動を始めた。
そこでの視点は、小樽運河の「見世物観光」ではなく、生きた生活のにおいのする観光をもって、まちづくりに貢献するという提案だった。いずれにしても全国的に小樽運河保存運動は盛り上がり、結局、半分は埋め立てられたが半分は残ったのである。しかし、小樽運河沿いには散策路とガス灯、ポケットギャラリーが整備され、旅情を誘う小樽風景として全国的に定着した。
全国の注目を集めた小樽運河の帰すうと、その後の石原裕次郎会館の建設、個性的なガラス館や名物横丁の出現などによって、小樽は一躍観光客の人気スポットになってしまった。小樽運河を守る会の元会長峰山富美さんは「小樽運河と共に地域に生きる」と今の心情を述べている。小樽のまちづくり運動のポイントは、まさにそこにあったのではないだろうか。
2─長浜市「黒壁」によるまちづくりと笹原司朗氏の戦略と挑戦
都市文化の仕掛け人としては、長浜から欧州ガラスの文化発信をしてまちを再生させたまちづくり会社「黒壁」の笹原司朗氏が有名である。その十余年の歩みは神格化され、全国の有数なまちづくり第三セクターの成功例となっている。長浜の黒壁の場合は、まさに笹原氏とそれを取り巻く仲間たちの異端性と成功への情熱、さらにまちおこし戦略にあったと言ってよい。「黒壁」の成功のテーマは、「欧州ガラス」を徹底的に研究し、商品開発と店舗展開に活用した結果にほかならない。
国際性ある欧州ガラスへの挑戦、空き店舗の再生、まちなか商店街活性化のモデル、経営戦略第一主義、まちづくり役場の設置など、まさに創造的革新のまちづくり戦略を実践していることである。異端児の最たるところは、市役所と商工会議所の逆のことを戦略的に行ったことだ、と笹原氏は言っている。いずれにしてもベンチャー的プロデューサー笹原司朗氏が二十一世紀の都市文化の仕掛け人であることは間違いない。
3─都市ヨコハマをつくった飛鳥田一雄、細郷道一両市長
飛鳥田一雄氏は、浜っ子の弁護士で、代議士から横浜市長になった。当時、民間のコンサルタント会社にいて、いかに都市づくりを行うかの計画に携わったのが田村明氏。同氏の提案した都市づくり計画を、「横浜市に入って実行してくれ」と飛鳥田市長に言われ、その後、同市長と田村明コンビが世に言う「横浜方式──戦略的六大事業プロジェクトとアーバンデザイン・市民参加」を実践、それを結実させるため努力し、今日の基盤を作り上げたのが細郷道一市長である。
主な先進的なまちづくりのいくつかを挙げると、まず横浜の中心部を走る高速道路を地下にもぐらせ、都市を美しくするアーバンデザイン行政を市民と共に進めたこと、タテ割り行政を改め、企画調整という本来の市役所の都市づくり行政のモデルをつくったことなどがある。六大事業は、(1)横浜都心部強化事業(MM21の実現)(2)金沢地先埋め立て事業(3)港北ニュータウン建設事業(4)高速道路網建設事業(5)地下鉄建設事業(6)ベイブリッジ建設事業─である。
六大事業の狙いは、(1)今でいう公共投資を少なく、民間資本の導入を図る(2)市が総合プロデュースを行う(3)自治体のセクト主義をやめ、総合調整をする(4)新しい創造と事業方式(5)職員の意識改革と取り組み(6)背水の陣とエネルギーの生み出し─など。まさに戦後の自治体、都市づくり行政、政策のモデルになったのである。
これら手法と都市づくりにかけた実践こそ、日本一なのではないだろうか。

4─小布施町における街並み形成とリーダーたち
長野県小布施町も、「栗」と「北斎」と「街並み形成」で広域集客によるまちおこしで有名である。
一九七六年の北斎館開館から始まった小布施のまちづくりは、隣接する高井鴻山記念館周辺の街並み修景事業によって面目を一新した。
この仕掛け人として小布施堂の市村次夫氏や市村良造氏など、まちづくりの独創的なリーダーが知られている。また、建築家の宮本忠長氏が一貫して設計監理をしたことも貢献している。
いずれにしても北斎館をはじめとする公共施設を持つ町と、民間施設の所有者が一体となって街路整備ならびに家並みのデザイン統一などを修景事業として行い、これを契機に景観関連制度ができ、新しい街並みが拡大したのである。大事な点は、この修景事業を宮本忠長氏のコンサルティング・設計のもとで、江戸時代からの高い文化性を伝承した地区の建築景観を活用したことである。
地元の建築家がまちづくりの過程に終始、責任をもって関与、プロデュースしたことが重要なのである。さらに、「ア・ラ・小布施」によるまちおこしの知恵と、小布施ブランドづくりのソフトの仕掛けも小布施の特長である。
5─蔵とラーメンのまち・喜多方の仕掛け人物語
福島県喜多方市は、ラーメンが有名になる前は、昭和三十年代後半に「蔵の町喜多方」をまちおこしのテーマにして実践したが、あまりパッとしなかった。これを「ラーメン日本一」に変えたのは、当時、市役所の観光課係長であった富山昭次氏が仕掛け人として存在していたからだ。昭和五十年後半に、NHKの人がロケハンに訪れて、富山氏がラーメン屋に連れて行き、何回かもてなし、「ラーメンの町喜多方」をNHKがテレビで数回紹介した。それが契機となって爆発的なラーメンブームが起きた。
さらに、青年会議所が「ラーメン消費量日本一のまち」を宣言した。実際、その数年後、全国のコンビニで「喜多方ラーメン」が日本一の売上量になっていった。私も昭和五十三年から二代にわたる喜多方市長のまちづくりブレーンとしてかかわってきているが、喜多方の場合、ここ数年まちづくりへの取り組みが低下したように感じられ、大変心配している。
6─長崎のハウステンボスをつくった天才プロデューサー神近義邦氏
長崎県の佐世保市で、「ハウステンボス」をつくった神近義邦前社長は、二十世紀日本での最大の地域づくりプロデューサーではなかろうか。
神近さんの素晴らしいのは、学歴もない、お金もない、人脈もない町役場の係長だった。それが一念発起して、東京の料亭に修業に出て、長崎オランダ村をつくり、その後さまざまな夢とロマンを追い求め、ひとりで十年かかってトータル一兆円の「千年王国」のプロジェクトを実践した。神近義邦氏を支えた当時の日本興業銀行相談役の中山素平氏や日本設計の池田武邦副社長、高田勇長崎県知事などの全面協力があった。そういう意味では、アメリカのウォルト・ディズニーにも匹敵するような発想とスケールの大きい人だったと思う。
名物首長 best5
「日本一を生かしたまちづくり」で最も重要な役割を果たすのが首長である。まず、市町村長と知事が、いの一番にまちづくりと取り組むのがベストである。日本でのまちづくり・まちおこしの名物首長のベスト5を私なりにあげよう。
第一は、北海道池田町の当時の丸谷金保町長。町の活性化のために、地元ワイン(十勝ワイン)を特産品として売り出し、ワイン町長として知られる。一村一品まちおこしの元祖。そのあと参院議員にまでなり、池田町は、その後現在まで官民にわたるワイン文化の情報発信を展開している。
第二は、昭和四十年ごろの千葉県松戸市の松本清市長。同市長は市役所に「すぐやる課」をつくった。役所というのはたらい回しするケースが多いが、市役所が市民のどんな相談・苦情にもすぐ行動して処理し、戦後の市役所サービス革命の第一歩を実践した。
第三は、静岡県掛川市長の榛村純一氏である。掛川城再建に当たって、公共事業としてではなく、市民と地元企業のファンドなどによって四十億円を集めて本物の城をつくった名物市長。
第四は、出雲市長だった岩國哲人氏(現衆院議員)。市役所の窓口業務を土・日曜日に駅前で実施した。最初は職員組合が反対したが、市民に喜ばれていわゆる「市役所革命」のシンボルとなった。
第五は、大分県の平松知事。一村一品運動は、いわゆるまちおこし、村おこしの原点となった。
最近では、名物首長といえば、東京都の石原慎太郎知事と長野県の田中康夫知事といえる。石原知事の外形標準課税での対応や、職員のベースアップ率引き下げなど、二十一世紀において東京から日本を変えるという基本スタンスは、都民に大きくアピールしている。
長野県の田中康夫知事も、マスコミでも大きく取り上げられた。二十一世紀の地方主権の自治体がどうなっていくか注目される。
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