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| ヌチヌスージサビラ ―命のお祝いをしましょう |
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| 小那覇舞天 |
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けれども、市になったからといって人々の生活が楽になるわけはありません。人々は、戦争で受けた心の傷を癒す間もなく、その日その日を何とか生き延びることで精一杯でした。軍の作業に駆り出され、食料と物資を手に入れることに追われて、疲れきり、毎日希望を失ったまま暮らしていました。 そこに突然現れた風変わりな男、それが小那覇舞天でした。 舞天は本名を小那覇全孝といい、沖縄県立二中(今の県立那覇高校)を第一期で卒業し、その後日本歯科医学専門学校(現日本歯科大学)を卒業した歯科医でした。 舞天は仕事で白衣を着ているときや家にいるときは、それこそまじめで口数の少ない人でしたが、一歩外に出ると風変わりな男に変わりました。 舞天は、弟子の照屋林助と毎晩のように、まだ起きている家を見つけては甲高い声で「ヌチヌスージサビラ(命のお祝いをしましょう)」といって入っていきます。「ジャカジャカジャン」と三味線が鳴り響き、歌が始まります。 突然やって来た中年の男が、その場でつくった歌を民謡の節に乗せ、この地方独特の踊りである琉球舞踊をくずしたヘンテコな踊りを舞うのですから、みんなはあ然とします。 しかし、やがて舞天のユーモラスな姿に乗せられ、みんなも一緒に踊り出しました。 舞天がある屋敷を訪問したとき、家のなかに位牌(亡くなった人の霊をまつるため、お坊さんに付けてもらった名前を記す木の札)があり、家主は涙を流していました。家主は舞天にいいました。 「どうしてこんな悲しいときに歌うことができるの? 多くの人が戦争で家族を失ったのに! 戦争が終わってからまだ何日も経っていないのに、位牌の前でどうしてお祝いをしようというのですか?」 すると舞天は答えました。 「あなたはまだ不幸な顔をして、死んだ人たちの年を数えて泣き明かしているのか。生き残った者が生き残った命のお祝いをして元気を取り戻さないと、亡くなった人たちも浮かばれないし、沖縄も復興できないのではないか。さあ遊ぼうじゃないか」 彼の言葉に家主の表情が変わりました。 「集まりがあれば必ず顔を出し、場を盛り上げる変わった男がいる」 舞天の存在は水面にさざ波が立つように知られていきました。舞天は「ブーテン」の愛称で親しまれました。 舞天の世の中を風刺した漫談に、みんなはおなかを抱えて笑いました。おなかのなかから大きな声で笑って、何だかみんなも少しずつ元気を取り戻してきました。打ちひしがれた人々の心が活力を取り戻し始め、舞天を中心に、地域の輪が広がっていきました。
「小那覇舞天は私にとっては先生です。先生は、夜になると『林助、遊びに行こう』と私を誘いに来ます。水筒に入った自家製の酒をチビリチビリ飲みながら家々を回ります。まだ起きている家を見つけると『スージサビラ(お祝いをしましょう)』といって入っていくのです。 当時は、一軒の家に一〇〇人くらいが詰め込まれて生活している状態でしたから、すぐに人の輪ができて笑いのうずが巻き起こりました。先生のつくり出す笑いは、希望を失った人々にとってどんなに救いになったか、計り知れないと思います。 先生、すなわち小那覇舞天という人は、自分が有名になるとか、偉くなるとかいうことにはまったく興味を持たない、ただ、どうしたら人を楽しませることができるのか? ということばかり考えている人でした。人を喜ばせる、人に喜んでもらうことが自分にとっての一番の喜びだったのです。 それは、笑いというものが、どんなときでも人の心をなごませ、勇気づけるものだからではないでしょうか」(「てるりん自伝」より) |
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【出典、参考文献】 石川市商工会ホームページhttp://www.ishikawa-shoko.jp//沖縄タイムス記事/「てるりん自伝」照屋林助 |
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