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| 荒れた天草を立て直し、民衆を救った代官 | ||||||||||||||
| 鈴木重成 |
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重成は、まず天草のすみずみまで歩いて見て回りました。そのころの天草は戦のため、人は少なくなり田畑は荒れ果て、人々は毎日の暮らしにも困っていました。そして、人々の心もすさび、あちらこちらで争いが絶えることがありませんでした。 「天草をよくするためには、まず人々の暮らしを落ち着かせなければならない」と重成は考えました。 そこで、西国の国々から人々を移民させて荒れた田畑を切り開かせ、作物がよく育つように気配りをしました。また、伝染病を防ぐために、天草の三ヵ所に医者を配置したり、主なお寺に薬草の本を置き、病人の世話や薬草のつくり方を広め、村々の立て直しに努力しました。 しかし、人々の暮らしは急には豊かになりません。なかには、重成のやり方が悪いと、不満をいう人さえ出てきました。 それにもかかわらず、重成の天草をよくしたいと思う心は強くなるばかりです。そこで、村を起こすために一〇組八六村の自治の仕組みをつくり、組ごとに大庄屋、村に庄屋、年寄、百姓代を置いたり、お寺やお宮を建てて人々の心が落ち着くように努めました。重成の兄の鈴木正三というすぐれたお坊さんもやって来て、これを助けました。 その熱心さに心を動かされて人々も仕事に精を出すようになりました。しかし、このような重成たちの努力にもかかわらず、人々の暮らしは楽にはならず、苦しみはなお続きました。 そのころは、税金を米などで納めていました。これを年貢といい、その地域でとれる農作物の量(石高)に税率をかけて決められていました。天草には広い耕地が少なく、山の上まで開拓した、狭くてやせた田畑ばかりでした。そこまで行くには、急な坂道を登って行かなければならず、肥料や収穫物は一つ一つ人間が運ばなくてはなりません。余計に骨が折れます。 ところが天草の石高は、作物がとれる量に比べて二倍も高いものでした。せっかく働いて米をつくっても、年貢を納めてしまうと、後には食べるものもなくなってしまうほどでした。それを一番心配したのは重成でした。
こう考えた重成は、そのことを幕府にお願いしようと決心しました。 しかし、幕府にとって石高を少なくすることは、とても許されないことでしたし、これまでほとんど例のないことでした。重成の熱心な願いは、どうしても聞き届けられませんでした。重成は、この願いが許されないのは、天草の本当の姿が分からないからだと、江戸に上るたびに幕府への申し立てを繰り返しましたが、やはり許しはありませんでした。 天草の人々の幸せを願う重成の心は、ますます強くなりました。この上は、自分の真心(命)をつくして天草の人々のために訴えようと覚悟を決めました。そして、 「最後のお願いをいたします。天草の石高を半分に減らして、この土地の人々を救っていただきたい」 ということを書き残して、自刃(自ら刃で命を絶つこと)して訴えたと天草では伝えられています。 このような重成の願いは、次の代官鈴木重辰に受け継がれました。重辰は兄正三の子どもで、重成の甥にあたり、養子となっていました。二人の代官の強い願いに幕府も心を動かされ、ついには天草の石高を四万二○○○石から二万一○○○石に減らしました。 こうして、天草は長い間の苦しみから救われることになりました。天草では、鈴木重成、重辰、正三を慕って、鈴木神社として今でも三人をおまつりしています。 |
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【出典、参考文献】 「道徳教育用郷土資料 熊本の心」熊本県教育委員会/「天草を救った代官 鈴木重成公伝」本渡ロータリークラブ/「鈴木重成公小伝」鈴木神社社務所 |
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