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91 熊本県(本渡市(ほんどし)

荒れた天草(あまくさ)を立て直し、民衆を救った代官
鈴木重成(すずきしげなり)



鈴木重成の像
 今から三六〇年あまり昔、寛永(かんえい)十四年(一六三七年)に肥後国(ひごのくに)天草(あまくさ)(現在の熊本県本渡市(ほんどし)周辺)で、天草島原(あまくさしまばら)の乱という一揆(いっき)がありました。その後、天草は幕府が直接治める天領(てんりょう)となり、初代代官となったのが三河国(みかわのくに)(現在の愛知県)出身の鈴木重成(すずきしげなり)でした。
 重成は、まず天草のすみずみまで歩いて見て回りました。そのころの天草は(いくさ)のため、人は少なくなり田畑は荒れ果て、人々は毎日の暮らしにも困っていました。そして、人々の心もすさび、あちらこちらで争いが絶えることがありませんでした。
 「天草をよくするためには、まず人々の暮らしを落ち着かせなければならない」と重成は考えました。
 そこで、西国(さいごく)の国々から人々を移民させて荒れた田畑を切り開かせ、作物がよく育つように気配りをしました。また、伝染病を防ぐために、天草の三ヵ所に医者を配置したり、主なお寺に薬草の本を置き、病人の世話や薬草のつくり方を広め、村々の立て直しに努力しました。
 しかし、人々の暮らしは急には豊かになりません。なかには、重成のやり方が悪いと、不満をいう人さえ出てきました。
 それにもかかわらず、重成の天草をよくしたいと思う心は強くなるばかりです。そこで、村を起こすために一〇組八六村の自治の仕組みをつくり、組ごとに大庄屋(だいしょうや)、村に庄屋、年寄、百姓代(ひゃくしょうだい)を置いたり、お寺やお宮を建てて人々の心が落ち着くように努めました。重成の兄の鈴木正三(しょうさん)というすぐれたお坊さんもやって来て、これを助けました。
 その熱心さに心を動かされて人々も仕事に精を出すようになりました。しかし、このような重成たちの努力にもかかわらず、人々の暮らしは楽にはならず、苦しみはなお続きました。
 そのころは、税金を米などで納めていました。これを年貢(ねんぐ)といい、その地域でとれる農作物の量(石高(こくだか))に税率をかけて決められていました。天草には広い耕地が少なく、山の上まで開拓した、狭くてやせた田畑ばかりでした。そこまで行くには、急な坂道を登って行かなければならず、肥料(ひりょう)や収穫物は一つ一つ人間が運ばなくてはなりません。余計に骨が折れます。
 ところが天草の石高は、作物がとれる量に比べて二倍も高いものでした。せっかく働いて米をつくっても、年貢を納めてしまうと、後には食べるものもなくなってしまうほどでした。それを一番心配したのは重成でした。

鈴木重成らをまつる鈴木神社
 「みんなが一生懸命働いても、実際にとれる量の倍の石高では年貢が高くなり人々の暮らしは楽にはならない。天草を本当に活気のある土地にするには、石高を実状に合ったものにしなければならない」
 こう考えた重成は、そのことを幕府にお願いしようと決心しました。
 しかし、幕府にとって石高を少なくすることは、とても許されないことでしたし、これまでほとんど例のないことでした。重成の熱心な願いは、どうしても聞き届けられませんでした。重成は、この願いが許されないのは、天草の本当の姿が分からないからだと、江戸に上るたびに幕府への申し立てを繰り返しましたが、やはり許しはありませんでした。
 天草の人々の幸せを願う重成の心は、ますます強くなりました。この上は、自分の真心(まごころ)(命)をつくして天草の人々のために訴えようと覚悟を決めました。そして、
 「最後のお願いをいたします。天草の石高を半分に減らして、この土地の人々を救っていただきたい」
ということを書き残して、自刃(じしん)(自ら刃で命を絶つこと)して訴えたと天草では伝えられています。
 このような重成の願いは、次の代官鈴木重辰(しげとき)に受け継がれました。重辰は兄正三の子どもで、重成の(おい)にあたり、養子となっていました。二人の代官の強い願いに幕府も心を動かされ、ついには天草の石高を四万二○○○石から二万一○○○石に減らしました。
 こうして、天草は長い間の苦しみから救われることになりました。天草では、鈴木重成、重辰、正三を(した)って、鈴木神社として今でも三人をおまつりしています。


【出典、参考文献】
「道徳教育用郷土資料 熊本の心」熊本県教育委員会/「天草を救った代官 鈴木重成公伝」本渡ロータリークラブ/「鈴木重成公小伝」鈴木神社社務所


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