|
||||||||||||||
|
||||||||||||||
| 乗客の命を救わなければ・・・ 自らの体を投げ出してバスを止めた車掌 |
||||||||||||||
| 鬼塚道男 |
||||||||||||||
事故現場となった長崎県時津町元村郷の国道二○六号線沿いの打坂峠には、鬼塚車掌の勇気をたたえて建てられた「愛の地蔵」が、道ゆく人々の交通安全を静かに見守ってくれています。 当時の打坂峠はくねくねと曲がっていて、バスの運転手からは「地獄坂」と呼ばれていました。道路はまだ舗装されておらず、勾配が二○度もあり、馬力のない木炭バスにとってはつらい急な坂道でした。木炭バスというのは今のようなガソリンでなく車体の後ろに大きな釜を付け、木炭を焚いて走るバスで、三○人も乗れば満員になるほど小さなものでした。 鬼塚車掌は、長崎自動車株式会社大瀬戸営業所の二階に住み込んで働き、彼が車掌を務めるバスは、大瀬戸から長崎までの道を一日一回往復していました。 朝八時の大瀬戸発であれば二時間前の六時には木炭をおこして準備をし、火の調子を整えておかなければなりません。また、走っていてもよくエンジンが止まり、そのたびに釜のなかの火を長い鉄の棒で突いて木炭をならしながら走っていました。このように釜の火の調子を整えることが、木炭バスの車掌の仕事でした。 事故の起こった昭和二十二年九月一日、鬼塚車掌が乗ったバスは、打坂峠の頂上までもう少しのところでギアシャフトがはずれ、ついに動かなくなってしまいました。ギアシャフトがはずれると、バスのブレーキはまったく効きません。バスはズルズル、ズルズルと急な坂道を後ろに下がり始めました。 「歯止めの石をかませ!」 と絶叫する運転手の声で飛び降りた鬼塚車掌は、手近にあった石をバスの車輪の前に置きましたが、加速のついたバスは石を粉々に砕き、あと数メートルで高さ二○メートルの険しい崖のふちというところまで迫りました。崖にバスが落ちれば乗客の命が危ない…。 その日、最初に事故現場に駆けつけたのは、長崎自動車株式会社時津営業所に勤めていた高峰貞介です。朝の十時を少し過ぎたとき、自転車に乗った人が「打坂峠でバスが落ちているぞ。早く行ってくれないか」といって、時津営業所に駆け込んできたのです。 高峰が木炭トラックに乗って急いで駆けつけると、バスは崖っぷちギリギリのところで止まっていて、運転手が一人真っ青な顔をして、ジャッキでバスの車体を持ち上げていました。 高峰は後に事故の状況をこう語ってくれました。 「鬼塚車掌は自分が輪止めにならなければと思ったんじゃないでしょうか。体ごと丸くなって飛び込んで、そのままバスの下敷きになりました。鬼塚車掌の体をバスの下から引きずり出して、木炭トラックの荷台に乗せました。背中と足にはタイヤの跡が付いていましたが、腹はきれいでした。十秒か二十秒おきに大きく息をしていたので、ノロノロ走る木炭トラックにイライラしながら、しっかりしろ、しっかりしろと声をかけて…。九月といっても一日ですから、陽がカンカン照って、何とかして陰をつくろうと鬼塚車掌に覆いかぶさるようにして時津の病院に運んで、先生早く来てくれ、早く早くって大声を出しました。その晩遅くに、みかん箱でつくった祭壇と一緒に仏さんを時津営業所に運んで来たのです」 鬼塚車掌は、炎天下のトラックの荷台で熱風のような空気を大きく吸い込んだのが最期でした。買い出し客や、市内の病院へ被爆した子どもを連れて行く途中の母親たち三○人あまりの命と引き換えに、若い生涯を閉じたのです。 この悲しい事故から二七年の月日が流れた昭和四十九年(一九七四年)十月十九日、長崎自動車株式会社は、鬼塚車掌の勇気をたたえ、交通事故をなくそうと、時津町元村郷の事故現場に唐津石でつくった慰霊地蔵尊を建て、入魂式を行いました。 この慰霊地蔵尊「愛の地蔵」は、赤いよだれ掛けを風に揺らし、鬼塚車掌の命日である九月一日には毎年供養祭が行われています。 |
|||||||||||
【出典、参考文献】 「一九八〇年十月二日付読売新聞夕刊」/「一九八六年十一月十四日付毎日新聞夕刊」/「愛の地蔵」吉田理(近代文芸社、一九九三年)/「広報とぎつ二〇〇三年、第四二八号」 |
|||||||||||
|
||||||||||||||