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| 心に響く「長崎の鐘」 ―命の限り被爆者救護にあたる |
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| 永井隆 |
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その日、昭和二十年(一九四五年)八月九日午前十一時二分、長崎に人類史上二発目の原子爆弾が落とされたのです。永井隆博士は、このとき爆心地からわずか六〇〇メートルの所にあった長崎医科大学放射線科研究室で被爆し、右半身いたるところが切れてしまいました。特に、右の目の上と耳のあたりに大傷を負い、血が噴き出して、右の目は見えなくなりました。 その直後、看護婦長を先頭に研究室の学生たちがぞくぞくと駆けつけてきました。まず急がねばならないのは火の回った病室から死傷者を救出することです。彼らを火の来ない丘の上に引き上げ、そこで手当てを始めました。手当てを待たずに死んでしまう人も多くいました。奇妙なことに傷が一つもなく、内出血らしい症状もなく、ただ全身の脱力を訴えている人が突然ぽっくり息を引き取ることもありました。 自分の体もかまわず懸命に救護にあたった永井博士は、夕方になってひととおり手当てを終えたところで、そのまま深い眠りにつきました。その後、何度も気を失ったりしながら、生き残った看護婦や学生たちと昼夜なく被災者の救護を続けました。 そして、三日目の夕方、死傷者の処置も一応終えたので、永井博士はようやく家へ帰りました。しかし、永井博士の家があった場所は、一面の焼け野原となっていました。台所があった場所で、永井博士は黒い塊を見つけます。それは焼けつくされたなかに残った妻の遺骨でした。そばには十字架の付いたロザリオの鎖が残っています。焼けこげたバケツに妻の遺骨を拾って入れましたが、その遺骨にはまだ温かさが残っています。永井博士はそれを胸に抱いて墓へ行きました。 「自分の骨を近いうちに妻が抱いていく予定であったのに。運命は分からぬものだ」 実は、その二ヵ月前、永井博士は「あと三年の命」と診断されていたのです。長年、永井博士は放射線科の医者として結核患者の集団検診をしていたのですが、戦時中でフィルムが不足していたこともあって放射線検査を直接自分の肉眼で透視して行っていました。そのため大量の放射線を受け、白血病にかかっていたのです。 永井博士は「あと三年の命」と宣告された夜、妻にすべてを打ち明けました。そのとき、妻は 「生きるも死ぬるも神様のご光栄のためにネ」 とにっこり笑っていいました。妻は、先祖代々キリシタンの信徒頭を務めた家系で、永井博士はその家に下宿したことからカトリック信者となり、洗礼を受けていたのです。
「国は敗れた。しかし、負傷者は生きている。戦争はすんだ。しかし、医療救護隊の仕事は残っている。私たちの仕事はこれからではないか。国家の興亡とは関係のない個人の生死こそ、私たちの本来の務めである」(「長崎の鐘」より) このときの永井博士の言葉です。 すると私も私もと皆立ち上がり、それから約二ヵ月間、巡回診療を行って多くの人々を助けるとともに、「原子爆弾救護報告書」をまとめるなど原爆の研究も行いました。 翌年、永井博士は白血病の悪化で寝たきりとなりましたが、カトリック信者が建ててくれた畳二帖ほどの小さな家「如己堂」で、「長崎の鐘」や「この子を残して」を始め十数冊を執筆し、廃虚のなかで生活にあえぐ人々を慰め、励まし続けました。 また、これらの本の出版で得た印税の大部分をさまざまなところに寄付したり、荒れ野となってしまった浦上地区を「花咲く丘」にしようと、桜の苗木一〇〇〇本を浦上天主堂や山里小学校などの周辺に植えました。 さらには、「平和を」と記した書約一〇〇〇枚を、国内を始め外国にまで送り永久の平和を強く訴え、原爆によって打ちひしがれた子どもたちのために自分の財産を投じて「うちらの本箱」と名付けた図書室をつくりました。 このように、長崎の復興に大きく寄与した永井博士は、あと三年の命といわれながら六年間人々のために生きて、四十三歳でその生涯を閉じました。永井博士の功績は、現在「長崎市永井隆記念館」に残されています。 |
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【出典、参考文献】 「長崎の鐘」永井隆/「ロザリオの鎖」永井隆/「この子を残して」永井隆/「花咲く丘」永井隆/「長崎市永井隆記念館リーフレット」/「展示物紹介パンフレット」 |
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