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| 陶工教育に情熱を注ぎ わが国初の工芸学校を開校 |
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| 江越禮太 |
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これは教育の重要さを語るときに誰もが口にする言葉です。この言葉に異論を唱える人はいないのではないでしょうか。 日本陶磁器の発祥の町として知られる有田においても、未来を見すえ「教育は有田百年の大計」とばかりに教育に情熱を傾けた先生がいました。 時は明治。新しい時代に入り、武士も町民も今までのような身分の差はなくなりました。これからは誰でも努力をすれば偉くなれるのだという風潮のなかで、民衆は日々の暮らしに追われていました。明治五年(一八七二年)の学制発布によって小学校はできたものの、子どもたちを通わせる余裕のある親はあまりいませんでした。 しかし、学問の大切さを思う有田皿山(現在の西松浦郡有田町)の指導者たちは、伊万里山代(現在の伊万里市久原)にある塾、「経綸舎」の塾長であった旧小城藩士江越禮太のことを知り、ぜひともわが有田の未来のため、子どもたちの教育に力を貸してほしいと願い出ました。 学問の大切さを思う町の人々の願いがかない、白川小学校が開校したのは明治五年のことです。白川小学校は、江戸時代に皿山代官所があった場所につくられました。 江越先生はこの白川小学校で教鞭をとり、子どもたちをとおして有田の現状をつぶさに見ていました。そのなかで、有田がとかく伝統に寄りかかり、有田焼固有の美を失いつつある姿を悲しく思っていました。加えて、江越先生自身、若いころ長崎や江戸で学び、広く世界の動きを見た経験から、これからの有田について思いをめぐらせていたのです。 このようなこともあって、江越先生は有田焼のすぐれた陶工を育てる必要があると思いました。 そして明治十四年(一八八一年)夏、ついにわが国最初の陶磁器工芸学校「勉脩学舎」が開校しました。 開校に際しては陶磁器メーカーの香蘭社社長であった深川栄左衛門の一〇〇〇円を始めとする有志の寄付が一万三五○○円に上り、江越先生自身も三六○円ほどの財産を投じました。それほど、学校にかける人々の熱意も並々ならぬものだったのです。 入学資格は小学校を卒業していることで、教科は絵画、製陶技術、窯業術の三部からなっています。これからの有田焼は海外にも通用するものでなくてはならない、そのためには教育しかない。それも今までのような字義の講釈だけではなく、あくまで実地の応用を奨励し、さらには生徒が陶磁器の町としての有田には他に類がないほど歴史があることも学べるようにしました。江越先生は、生徒たちにどのようにしたら窯業に興味を持ってもらうことができるかということにも心をくだきました。 江越先生は、同郷の徳見知愛とともに「それ長崎の県庁を 北に距ること二十余里 西松浦郡皿山は 戸数一千三百余 人口凡そ六千人 陶器を産する土地にして」に始まる「皿山風土記」という詩をつくりました。 ここにも、子どもたちに有田の歴史を教え、陶磁器に興味を持たせようという願いが込められています。 当時、「皿山風土記」は有田の町で、子どもだけでなく大人も暗唱して口ずさんだといわれています。
江越先生は明治二十五年(一八九二年)長崎で亡くなりました。彼の思いが込められた勉脩学舎もその年廃校になりましたが、伝統は有田徒弟学校、佐賀県立工業学校有田分校、佐賀県立有田工業学校、高校の再編により佐賀県立有田工業高等学校、さらには佐賀県立有田窯業大学校と受け継がれていきます。 江越先生がまいた種は花開き、その建学の精神は今なお有田の町に力強く脈打っています。 |
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【出典、参考文献】 「江越禮太と勉脩学舎」有田町教育委員会/「有田町史政治社会編U」有田町/「おんなの有田皿山さんぽ史」有田町教育委員会 |
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