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| コレラに感染しながら防疫につくした警察官 | ||||||||||||||
| 増田敬太郎 |
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増田青年は、三ヵ月ほどかかる教習課程をわずか一〇日間で習得するなど優秀な成績で卒業し、佐賀県唐津警察署に配属を命じられました。 当時の日本は伝染病であるコレラが各地で流行していましたが、この年は恐ろしいほどの広がりを見せた年でした。佐賀県東松浦郡入野村高串地区(現在の肥前町)も例外ではなく、コレラが猛威を振るっていました。しかし、この当時高串地区にいた駐在巡査は病気がちで、村人たちを助けることができず、県の警察本部に応援を求めていました。 そこで、県の警察本部は、新任の巡査のなかに適任者はいないかと面接調査を行いました。その結果、知識もあって行動力のある増田巡査が抜擢されました。人一倍正義感が強い増田巡査はすぐに引き受け、唐津から交通機関が何もない山道をたどり高串地区に向かいました。 そして、赴任するとさっそく地区の様子を調査し、区長たちとコレラ対策を立てました。 高串地区の人々は、病気に対する恐怖を抱いていたもののコレラという伝染病に対する知識をあまり持っていませんでした。そのため増田巡査は先頭に立って患者の家の消毒を行い、縄を張りめぐらして人々の往来を禁止しました。また、生水を飲んだり、生のままの魚介類を食べないよう指導して回りました。 しかし、増田巡査の懸命の努力とは裏腹に、すでに手遅れの患者が薬を飲んで亡くなったのをきっかけとして、「毒薬を飲ませている」という何の根拠もないうわさが広まったのです。このうわさによって、治ると思われる症状の患者まで「この薬は毒薬だから飲まない」といい出しました。増田巡査は村中を回り、根気強く人々の誤解を解いていきました。 また、病気が移ることを恐れて村人がコレラで亡くなった人の遺体を運ぶことを拒むようになっても、増田巡査はたった一人で遺体を背負い、対岸の丘の上の墓地に埋葬しました。 しかし、患者への手厚い看病や予防活動に不眠不休で取り組む増田巡査の疲れも極限に達していました。コレラは疲れきっていた増田巡査の体にも容赦なく襲いかかり、高串に赴任して三日目の午後、とうとう倒れてしまいました。 「このようになっては、回復の見込みはないと覚悟しています。しかし、高串のコレラは私が全部背負っていきますから安心してください。また、村人たちには、私が指導したように看病と予防をしっかりやるように伝えてください」 死の間際にこう遺言し、増田巡査はついに帰らぬ人となりました。 頼りにする巡査の悲報を聞いた村人たちは深い悲しみに暮れました。増田巡査が警察官になって七日目、高串に来てわずか四日目のできごとでした。 増田巡査の遺体は翌日、高串沖の小松島で村人により火葬されました。その後、増田巡査の言葉どおりコレラが収まり、村にはまた穏やかな平和な日々が戻ってきました。
肥前町高串地区では、毎年七月二十六日に近い日曜日に、警神となった増田巡査をしのび「増田神社夏祭り」が盛大に開催されています。 また、火葬された小松島には「警神火葬の碑」が建てられ、航海や漁での安全を祈る神様としても崇められています。 村人たちを守った増田巡査の偉業は、地区の人々によって代々語り継がれています。 |
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【出典、参考文献】 「神様になった人の話 増田敬太郎物語」増田さま一〇〇周年記念誌(肥前町企画振興課)/「巡査大明神全傳」内田守(増田神社奉賛会) |
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