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| 工夫し続けた「東洋の発明王」 からくり儀右衛門 |
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| 田中久重 |
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幼いころから仕事場に座り込んで、父弥右衛門の手元をじっと見つめ、「たいまい」と呼ばれる海亀の甲らが、櫛やめがねの縁に変わっていく様子を面白そうに見ている子どもでした。 あるときは近所の鍛冶屋へ出かけ、真っ赤な鉄の塊が鎌や包丁などに形が変わっていく様子を一心に見ています。またあるときは、道具屋でかんなで板をけずるやり方を見ています。そのうちに刃物のつくり方や傘づくり、漆塗り、人形づくりなど、どうやってつくっていくのかをすっかり覚え込んでしまいました。 儀右衛門が九歳のとき、寺子屋(子どもたちに読み書きを教えるところ)ですずり箱にいたずらをされたことがありましたが、儀右衛門は引出しのつまみをちょっと回しておけば、決して開くことのできないような仕掛けをつくって、友だちや先生をびっくりさせました。 また、近所には、久留米かすりを発明した井上伝という人が住んでいました。儀右衛門は十五歳のとき、もっと新しい模様がつくれないかという伝の悩みを聞いて、それまでの十字模様やあられ模様とは違った花や鳥や人の形をした絵模様の美しいかすりを織ることができる機械をつくり出し、織り方や下絵の描き方まで教えたので、久留米かすりの評判がいっそう高くなりました。 二十歳になると、さまざまなからくり人形をつくっては人々を驚かせ、その人形を持って大阪、京都、江戸などを回りました。からくり人形はどこへ行っても大評判で、「からくり儀右衛門」の名は日本中に知れわたりました。 ところが、父親の死後、儀右衛門の発明工夫を陰ながら見守り、励まし続けてくれた母親が亡くなりました。自分の好きな仕事に夢中になっていて、何の恩返しもできず両親を失ったことに、深い悲しみと後悔に暮れていた儀右衛門の耳に、先に亡くなった父親の声がよみがえってきました。 「立派な発明家になって国のため、人のためにつくす」という約束の言葉です。儀右衛門は、はっとしました。からくり人形を工夫する知恵は、もっと大切なことに使わなければならない…。 そこで、さらに勉強し自分の力が十分に発揮できる場を求めて、妻や子どもを連れ大阪に住まいを移しました。儀右衛門、三十六歳の出発です。 当時大阪では、幕府に不満を持った武士たちの反乱が相次いでいました。大塩平八郎の乱による大火事で町は焼かれ、儀右衛門も家や家財道具、発明道具をすべて失いました。焼け出されて知人宅に世話になっていた儀右衛門は、ちょろちょろとしか水の出ない「竜吐水」というポンプを何とか工夫して、水を高く出せないか一生懸命に考えました。そして四人がかりの手押しポンプ「雲竜水」をつくり、見物人の目の前で一〇メートルもの水を勢いよく出して見せました。人々は大いに喜び、たくさんの注文がきました。
こうして完成したのが、日本最高の作品といわれる万年時計で、「万年自鳴鐘」と呼ばれる六角形の時計です。 万年自鳴鐘は、一面は西洋の時間、二面は日本の時間、三面は曜日、四面は季節、五面は今夜の月の大きさ、六面は子丑寅などの刻をあらわし、一番上には赤い球と白い球がくるくると回るようになっており、太陽と月の動く様子が一目見て分かるようになっていました。 五十二歳になってもなお熱心に西洋の天文学や蘭学を学んだことが、儀右衛門の発明をさらに進歩させていきました。儀右衛門の名声を聞いた佐賀藩(現在の佐賀県)では、彼を招き、初めて日本人の手によってつくられた蒸気機関をすえ付けた汽船を完成させました。 明治時代を迎えると、儀右衛門は七十五歳で東京に移り、現在の東芝のもととなる工場をつくり、明治十四年(一八八一年)、八十二歳で亡くなるまで活動し続けました。 |
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【出典、参考文献】 「ふるさと久留米をきずいた人びと」久留米市先達顕彰促進協議会 |
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