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| 後世に伝えていきたい 「早起太鼓」の役割とその響き |
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| 後山耕地整理組合 |
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後山地区もそんな過疎の危機にさらされている土地の一つです。この地区は、越知盆地で仁淀川の流れを大きく蛇行させている横畠丘陵の中腹にあります。 地区の中央に建つ後山公民館には、古びた太鼓が大切に保存されています。「早起太鼓」と呼ばれるこの太鼓は、昭和初期の大恐慌を生き抜いた先人の、血を吐くような開墾の歴史を物語るものです。 昭和二年(一九二七年)八月、高吾北地方は猛烈な豪雨に襲われ、地すべりや山津波(山崩れによって起こる土石流)などで多くの人が亡くなりました。豪雨によって耕地も土砂の底に埋まってしまいました。 あまりの被害の大きさに驚いた県の役人は、耕地を拡張するための調査を行い、その結果、後山地区の「唐岩」と呼ばれる土地なら耕地に開墾できるという報告が出されました。 折からの深刻な不況で、食うや食わずの生活だった農民は、耕地の拡張にもろ手を上げて賛成しました。さっそく片岡豊吉を中心とする一八名が耕地整理組合をつくり、唐岩開墾に着手しました。 唐岩は後山から渓流に沿った急な坂を三〇分ほど登った尾根に広がる土地で、岩石が多い山林のため簡単に開墾できる地形ではありませんでした。もちろん当時は今のような機械もなく、鍬、槌、のこぎり、のみ、もっこ(土などを運ぶ縄を編んだ道具)などの開墾道具を使い、大勢の人を使っての開墾でした。 唐岩にいたる道は険しく、開墾道具を持って歩くことができないため、まず、道をつくるところから始めました。 ようやく開墾が始まっても苦労の連続で、木を切り倒し、切り株を掘り起こして取りのぞき、地表に出ている岩を砕く作業が続きます。そして適度な大きさに砕かれた石を拾い集めて、畑のあぜの石垣に積み上げていくのです。 また、斜面の表土をきれいにはぎ取り、高い場所を削ったり、くず石を敷いたりしてゆるやかな勾配の床にならします。その後、地面から掘り起こした切り株に取っ手となる柄を付けただけの、「たこ」という道具で床を十分に固めていき、平らに固まった床の上に、表土を盛り上げていきました。 開拓者たちは、このように大変な作業をいく日もいく日も続けました。しかし、汗みどろで働いても、作業は遅々として進みません。 そこでもっと朝早くから作業をすることにしました。こうして「早起太鼓」の登場となるのです。 夏ならば午前五時、冬ならば午前六時半。威勢のよい大太鼓の音が朝のしじまを破ります。人々は一斉に飛び起き、重い体を引きずって唐岩に向かいます。そして普通ならまだ寝ている時間から開墾に没頭したのです。
まさに寝る暇もないような労働を何年も続け、やっと六町三反二畝(約六・三二ヘクタール)の畑をつくり、大不況のなかで厳しい生活をしながらも、何とか家族を養えるようになっていきました。 現在、唐岩へは車で楽に行くことができます。しかし広大な耕地の半分以上は、クズバカズラがうっそうと茂り、人を寄せ付けない荒れた耕地となっています。 先人が築いた石垣も、ならした床に盛り上げた表土も、カズラに覆われてまったく見えず、当時の苦労を伝えるものは隠されてしまい、早起太鼓で起き、身を粉にして開墾してきた地区が、今消え去ろうとしています。 しかし、目に見える先人の功績は消えても、先人の情熱や誇りは私たちの心のなかに息づいているのです。 |
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【出典、参考文献】 「一九九六年八月二十三日付高知新聞」 |
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