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83 愛媛県(松前町(まさきちょう)

穀物(こくもつ)の種は命より大切」
―語り継がれる義農(ぎのう)の精神
作兵衛(さくべえ)



義農の墓
 作兵衛(さくべえ)は、元禄(げんろく)元年(一六八八年)、伊予国松山藩筒井村(いよのくにまつやまはんつついむら)(現在の松前町(まさきちょう))の貧しい農家に生まれました。
 少年のころから昼は田畑を耕し、夜は遅くまでわらじをつくるなど働き者で、村の人々は作兵衛を若者の手本だといってほめていました。
 作兵衛が一生懸命働いたおかげで、一家の暮らしもだんだん楽になり、わずかばかりの田畑を買うこともできました。作兵衛は勇んで村役人のところへ行き、買った田畑を自分の持ち物とするための手続きをしました。
 村役人は作兵衛の買った田畑がやせた土地なので、収穫は少ないだろうと考え、税を納めさせるのは気の毒に思いました。
 しかし、作兵衛は「どんな土地でも一生懸命に耕せば、必ずよい田畑となって、多くの米を収穫することができるはずです」といい、前にも増して農作業に精を出しました。
 そしてその言葉どおり、見事数年で多くの収穫があがる田畑にしてしまったのです。その上、他にもたくさんの田畑を買うことができるようになりました。
 しかし、享保(きょうほう)十七年(一七三二年)、松山藩は大変な()きんに見まわれました。五月から長雨が続き洪水が起こったことに加えて、六月になるとウンカという害虫が大発生しました。ウンカの勢いはすさまじく、稲を始め雑草まですべて食い荒らすありさまで、米の収穫はほとんどありませんでした。
 農民たちはわずかに蓄えていた雑穀(ざっこく)やくず根、(ぬか)などを食べて飢えをしのいでいましたが、とうとうそれさえもなくなると、飢えて死ぬ者が出てきました。そして死者の数は数え切れないほどにまでなってしまったのです。
 そのようななか、九月になり、だんだん涼しくなって麦をまく季節がやって来ました。作兵衛は、倒れそうになる体を奮い起こし、麦畑に出て、耕作を始めようとします。ところがあまりの空腹と疲労のため、とうとうその場に倒れてしまいました。

義農作兵衛の像

作兵衛をまつる義農神社
 近所の人に助けられて、ようやく家に帰ることはできましたが、起き上がることもできなくなり、麦俵(むぎだわら)(まくら)にして寝込んでしまいました。
 このつらそうな様子を見た近所の人たちは、作兵衛に俵の麦を食べて命を長らえるようにすすめました。しかし作兵衛は人々にこう告げて、帰らぬ人となったのです。
 「穀物(こくもつ)種子(たね)をまいて収穫を得て、税として納めるのは農民の務めです。収穫した作物を国に納めるから国の人々は生活ができるのです。だから穀物の種子は、自分の命以上に貴重なものなのです。農民は国の基本で、種子は農業の基本です。今もしも、私がこの種麦(たねむぎ)を食べて数日の命をつないだとしても、来年の種麦をどこから得ることができるでしょう。たとえ私が飢えで死んだとしても、この種麦によって何万という命を救うことになれば、もとより私の願うところです」
 享保十七年九月二十三日、全国的な「享保の大飢きん」の真っただなかのできごとでした。
 翌年、村の人々は作兵衛の残した種麦を、一粒一粒、祈りを込めながらまいていきました。
 この話を伝え聞いた松山藩は年貢(ねんぐ)免除(めんじょ)し、村人は飢きんの苦しみから抜け出すことができたそうです。
 そして作兵衛の亡くなった後四四年を経た安永(あんえい)五年(一七七六年)、松山藩主松平定静(まつだいらさだきよ)は、彼の功績(こうせき)を後世に伝えるため、碑文(ひぶん)入りの墓石を建てました。
 こうして作兵衛の尊い犠牲(ぎせい)の精神は人々に語り継がれ、明治十四年(一八八一年)には、伊予郡の人々が作兵衛をまつる「義農神社(ぎのうじんじゃ)」を建て、その世話をする「義農会」ができました。
 また、種麦を枕に亡くなった作兵衛の銅像も建てられ、毎年四月二十三日にはそこで地元の人たちが「義農祭」を行っています。


【出典、参考文献】
「義農作兵衛」森恒太郎/「松前町誌」松前町役場/「愛媛子どものための伝記 第四巻」愛媛県教育会


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