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82 愛媛県(上浦町(かみうらちょう)

(いも)地蔵」となった男と薩摩芋(さつまいも)の旅
下見吉十郎(あさみきちじゅうろう)



向雲寺の墓所。このなかに「芋地蔵」がまつられている
 「(いも)地蔵」とは、江戸時代に甘藷(かんしょ)薩摩芋(さつまいも))を瀬戸内海(せとないかい)の島々に伝えた功労者の下見吉十郎(あさみきちじゅうろう)をまつった石づくりの地蔵菩薩像(じぞうぼさつぞう)のことです。
 現在、上浦町瀬戸(かみうらちょうせと)向雲寺境内(こううんじけいだい)にあり、地蔵の台石(だいいし)の左面には「下見吉十郎」の文字が刻まれています。
 吉十郎は、延宝(えんぽう)四年(一六七六年)、大三島(おおみしま)瀬戸村(せとむら)に生まれました。吉十郎の先祖は河野(こうの)氏といわれ、妻と二男二女の四人の子どもがいました。しかし不幸なことに吉十郎の子は、全員が幼くして亡くなってしまいます。
 なげき悲しんだ吉十郎は、正徳(しょうとく)元年(一七一一年)、六十六部廻国行者(ろくじゅうろくぶかいこくぎょうじゃ)となって諸国をめぐる旅に出る決心をします。吉十郎、三十五歳のときでした。
 六十六部廻国行者とは、書き写した法華経(ほけきょう)を全国六六ヵ国の寺院などの霊場(れいじょう)に、一部ずつ納めて回る巡礼者(じゅんれいしゃ)のことです。
 瀬戸村から旅立った吉十郎は、広島の尾道(おのみち)を経て京都、大阪と回り、九州に南下しました。同じ年の十一月二十二日に、薩摩国(さつまのくに)(現在の鹿児島県)日置郡伊集院村(ひおきぐんいじゅういんむら)をおとずれ、そこで、土兵衛(つちべえ)という農民の家に泊めてもらいました。
 このとき、吉十郎は農民の家で、薩摩地方で栽培されている甘藷をごちそうになります。
 そして、薩摩ではこの芋のことを琉球(りゅうきゅう)(現在の沖縄県)方面から伝わったとして「琉球芋」と呼んでおり、栽培方法が簡単で主食にもなるものだと教えてもらいました。しかもこの作物は、やせた土地でも育つので、()きんになっても耐えることができるというのです。
 吉十郎は、甘藷の話を聞けば聞くほど、「何としても故郷へ持ち帰らなければ」という思いを強くしました。
 なぜなら吉十郎の故郷である瀬戸内海の島々は、平地が少なく、一たび水不足や洪水があると作物が収穫できずに、いつも農民が苦しい思いをしていたからです。食糧不足で悩む瀬戸内海の島々でこの甘藷を栽培することができれば、()えに苦しむことがなくなるかもしれません。
 吉十郎は土兵衛に「ぜひこの甘藷の種芋を分けてほしい」と願い出ました。
 ところが、薩摩藩では甘藷を藩の外へ持ち出すことを固く禁止していました。もし見つかれば、重い刑罰を受けなければならなかったのです。

芋を抱いた「芋地蔵」
 土兵衛には断られましたが、吉十郎は自分の命の危険を覚悟で、(ひそ)かに種芋を故郷に持ち帰る決心をします。そして苦難の末、種芋をたずさえて何とか無事故郷に帰ることができました。
 吉十郎は翌年の春を待って種芋を植え、試しに苗をつくってみました。収穫できるかどうか、村人たちも半信半疑(はんしんはんぎ)でしたが、やがて秋になるとたくさんの甘藷がとれ、たいへん喜ばれました。
 こうして瀬戸村から始まった甘藷栽培は、瀬戸内海の島々に次々と広がっていき、農民たちは甘藷によってさまざまな災害を切り抜けることができるようになりました。
 享保(きょうほう)十七年(一七三二年)に西日本で起こった大飢きんにより、松山藩では多くの人が飢えで亡くなったと伝えられていますが、この地方では、飢えで亡くなる人はほとんどいませんでした。吉十郎の持ち帰った甘藷が多くの人々の命を救ったのです。
 後に、青木昆陽(あおきこんよう)が江戸の小石川薬園(こいしかわやくえん)で甘藷を栽培し、幕府は飢きんの対策として全国に甘藷の栽培を奨励(しょうれい)しました。
 薩摩で「琉球芋」と呼ばれていた甘藷は、こうして全国に広まり「薩摩芋」と呼ばれるようになって、人々を飢きんから救いました。
 その後、吉十郎は八十歳で亡くなり、瀬戸村の向雲寺にほうむられました。そして彼の亡くなった後、彼の業績を記憶にとどめておこうとこの寺に「芋地蔵」がつくられたのです。
 上浦町では今でも毎年、下見吉十郎の命日として、旧暦の九月一日に「芋地蔵祭り」が行われています。


【出典、参考文献】
「愛媛子どものための伝記 第四巻」愛媛県教育会/「第一回上浦いも祭り(平成十四年)資料」


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