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| 村人を思い一身をなげうった庄屋さん | ||||||||||||||
| 池田彦七 |
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今でも毎年、池田翁の命日にあたる九月二十六日になると、そろってこの祠に参拝に行く人たちの姿を見ることができます。 池田翁は、今からおよそ二七〇年前に入野郷落合・松崎村の庄屋の家に生まれました。 池田翁が生まれたこの落合村あたりには、大昔から湿田が数多くありました。そのせいか、享保十六年(一七三一年)から十七年(一七三二年)に大水害が起こった際には、村は穀物が一粒もないといっていいくらい収穫がなく、村人たちの生活は困窮を極めていました。 享保十七年、中国、四国、九州地方を中心とする西日本一帯を天変地異が襲い、各地ですさまじい数の人が飢えで亡くなったことがさまざまな文献に残されています。江戸時代に起こった三大飢きんの一つとされる享保の大飢きんです。このことは讃岐国(現在の香川県)の農民史にも「享保の大凶作は、天保年間(一八三〇年〜一八四四年)の凶作以上に苦しんだ」と書かれています。 この時代の飢きんによく見られたのは、農作物がほとんど収穫できないにもかかわらず、厳しい年貢の取り立てにさらされた農民のつらさや苦しさでした。 そして農民が、想像を絶するこうした苦しみにさらされたのは、池田翁が生まれ育った地、当時、松平藩が治めていた入野郷落合村でも例外ではありませんでした。落合村の農家の人々は悲惨な生活にあえいでいたのです。 収穫のないまま、落合村にも厳しい年貢の取り立てがやって来ました。庄屋である池田翁は、あまりにもひどい状態を見るに見かねて、先祖代々伝わってきた家具などをすべて売り払い、農民たちを助けようとしました。しかしそれも焼け石に水で、どうすることもできないことを悟ります。 「何かいい方法はないか」と考え抜いたあげく、ついに、たまりかねた池田翁は、死を覚悟で松平藩主に年貢取り立ての延期をしてくれるよう直訴する決心をしました。 直訴とは決まった手続をせずに藩主などに直接訴えることで、当時、直訴は法で厳しく禁じられていました。直訴をすれば、本人はもとより妻や子どもまでもが死罪となるほどの重罪となります。そこで、池田翁は妻や三人の子どもと離別します。そして自分の屋敷のものは仏壇までも売り払い、身一つになって藩主の松平公への直訴におよびました。 しかし、池田翁の直訴は松平公へ届きませんでした。そして、法を破った池田翁は、取次ぎの役人の手によって捕らえられ、獄舎に入れられました。 このときの池田翁の気持ちはどのようなものだったのでしょうか。池田翁は、翌年の享保十八年(一七三三年)九月二十六日、獄舎のなかで亡くなったことが伝えられています。 その後、池田翁のこの行いが、ふとしたことから松平藩主の耳に届きます。池田翁の一身をなげうった尊い気持ちと、農民の困窮を気の毒に思った藩主は、年貢の取り立てをゆるめました。池田翁が亡くなった後、ようやく翁の願いがかなえられたのです。 おかげで、農民の生活もどうにか持ち直すことができました。村の人たちはこの池田翁の行いに深く感謝し、後に祠を建て、手厚く池田翁をまつりました。そして朝夕の礼拝を続けてきたと伝えられています。 大正六年(一九一七年)には、松平頼寿白が「釈宗祐信士」と書かれた翁の墓の横に碑を建て「殺身成仁、偉矣義民」と書きました。 これは「自らの命を犠牲にしてでも人を思いやることを大切にし、村人や地域の人々のために正義人道の実現を目指して働く人々」というような意味を表しています。 そのころからでしょうか、池田翁がまつられるこの祠は、「義民さん」と親しげに呼ばれるようになったということです。 人は世につれ、世は人につれ。ときの流れとともに「享保義民在平成往時幽」。忘れてはならない人の誠をいく久しく伝えるべきと、古老たちは翁の話を若い人たちに語り伝えています。 |
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【出典、参考文献】 「おおち夜話」荒井とみ三(大内町役場) |
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