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| 難所の道づくりに一人で挑んだ老人 | ||||||||||||||
| 大股与市 |
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天明年間(一七八一年〜一七八九年)は飢きんが続いて闇市場が盛んになり、大股は内陸の交易中継場として活気がありました。朝から晩まで旅人や馬が行き来し、細い街道をより以上に混雑させていました。 その江刺街道は、街道とはいっても細く曲がりくねった道に過ぎなかったからです。 さて、大股中井に与市という老人がいました。その老人は毎日のように、 「今日も死んでしまった。せっかく運んで来た荷物と一緒に崖から落ちて…」 と嘆いていました。 道中は岩や崖が多く、人や馬が深い谷に無惨にもころげ落ちて死んだといううわさが、老人の耳に入ってきていたのです。 そんな日々が続いたあるとき、老人は黙って道路の開削に立ち上がりました。これは、容易な決心ではありませんでした。 老いた身でありながら、目的を貫くまではあきらめないと誓い、つるはしを振り上げて道を広げ、岩をうがち、崖を切り崩す作業を続けていきました。 雨の日も風の日も休まず、一年、二年とこの大事業に渾身の力を傾けていったのです。くじけそうになったとき、老人は、凶作に苦しむ人たちの苦しみを思い、岩頭に立って開削の決意を新たにしました。 このように毎日苦労して働き続ける老人に周囲の人たちの態度は冷たく、家族からも愛想をつかされました。 老人は白眼視に耐えながらも子飼沢、落合、津付、大わし、中井と開削を進め、ついに一二キロメートルの道の幅を広げることができました。天明二年(一七八二年)のことで、このとき与市はすでに六十二歳、岩頭に立って決意してから六年の歳月が過ぎ去っていました。 このおかげで何百人の命が助かったことでしょう。与市は後年、伊達藩から篤行者として表彰されています。
江刺街道は、現在の国道三九七号(岩手県大船渡市〜秋田県十文字町)の基となった道路です。明治三十二年(一八九九年)に県道が開通するまで、利用されていました。 与市が長い歳月と大変な苦労をしてつくった道は、後には県道から国道となって、多くの人々が恩恵を受けたのです。 与市は、周囲からどう思われようと、街道を往来する人々の安全だけを思い、困難な事業を成しとげたのです。このようなすばらしい業績を残した人が私たちの郷土にいたことを忘れてはなりません。 街道沿いの子飼沢の九十九曲登り口と大股小学校に切通しの古碑が残っていて、開削当時を物語っていましたが、現在では二つとも大股から小股に越える「ゆりあげ」と呼ばれる峠の小さな広場に移設されています。大股地区の人たちの手で古碑は大切に管理され、説明板の設置や草刈りなどが行われています。 |
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【出典、参考文献】 「住田風土記」根来功範(住田町教育委員会)/「住田町史」金野靜一監修、住田町史編纂委員会編集(住田町) |
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