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| 命をかけて農民を救った組頭と首切り地蔵 | ||||||||||||||
| 千葉惣左エ門 |
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江戸時代には各地でたびたび一揆が起こっていましたが、花泉町を含む広い地域を治めていた伊達藩はもともと一揆の少ない藩でした。ところが、寛政九年(一七九七年)の仙北諸郡一揆だけは、伊達藩が経験した唯一ともいえる藩の屋台骨をゆるがすほどの大一揆でした。 伊達藩では、多くの死者を出したといわれる天明の大飢きん(一七八三年)から少しは立ち直っていましたが、藩の財政は行き詰まっていました。藩の収入は米だけに頼る状態でしたから、米を見返りとした借財が増加しました。藩は御買米(農民から年貢米の他に米を強制買上する制度)や御手伝金などを強化して、農民の余剰米をしぼり取りました。このような状況でしたから、仙北諸郡一揆は起こるべくして起こったといわれています。 寛政九年(一七九七年)五月、十八ヵ条からなる要求書として「峠村惣御百姓共口上書」を掲げて、田村領一三ヵ村の一三○○人あまりが一揆に参加しました。一揆に参加した村人は、二回にわたって一関方面に押しかけました。 一回目は、寛政九年(一七九七年)四月二十三日、二回目は、同じ年の五月十七日でした。訴状は受け入れられ、要求は認められましたが、峠村の総訴人代表であった組頭惣左エ門と蛭沢の組頭藤十郎は、捕えられて牢に入れられてしまいました。 惣左エ門は、組織の組頭として働き盛りの年齢で、一揆の前年までは親子三代で一つの家に暮らす平和な家庭を持っていました。 しかし、藩政時代の一揆は、現代社会では革命行為に匹敵します。一揆は、藩の基礎をゆるがすもっとも重い犯罪であり反逆行為でしたから、どんな理由があるにせよ首謀者は死罪でした。 寛政十年(一七九八年)冬、農民一揆の総訴人代表として惣左エ門は打首(首を切ること)の刑となり、藤十郎は女川沖の江ノ島に島流しとなりました。処刑に際して、 「惣左エ門。其方の命を無駄にはせぬぞ。訴状の事しかと報いるによって心おきなく旅立てよ…」と、温情のある裁きが下されました。これを聞いた惣左エ門は、 「ありがたき御裁き。心残りなく参られます…」 と涙にくれ、藤十郎も泣いたと伝えられています。
藩法では一揆の首謀者は死罪、家族はもちろん親類なども同罪になって処刑されます。しかし、伊達藩の基礎をゆるがすような仙北諸郡一揆の犠牲者は、町内では惣左エ門ただ一人でした。 藤十郎は島流しになりましたが、いつの日か再び故郷の土を踏むことがあるかもしれません。惣左エ門は藤十郎が死罪を免れたことを心の底から喜びました。藤十郎は「すまない」といって、惣左エ門の手を握って放さなかったということです。 藩から種籾の給付が許可されて何とか作付けが間に合いそうだ、という話を伝え聞いた惣左エ門は、これを冥土の土産として、裁きの日から二日後の五月十日の早朝に打首の刑に処せられました。刑場に引かれた惣左エ門は、カッコウの声を聞きながらにっこり微笑んで死んでいったと伝えられています。数えで三十七歳のときでした。 その後多くの人々が、厳しい封建制度のなかで命をかけて農民を救った惣左エ門を、義民としてたたえました。そして、惣左エ門の霊に感謝し供養するために、生家近くの県道藤沢線沿い(通称「割山」の頂上付近)にお地蔵様を建立しました。 このお地蔵様は、いつのころからか「首切り地蔵」と呼ばれ、建立したときから頭部がありませんでしたが、昭和四年(一九二九年)、頭部がつくられ現在の姿になりました。地域の人々は、建立から約二○○年経った今でもお地蔵様となった千葉惣左エ門を手厚く供養しています。 |
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【出典、参考文献】 「峠村当人数御改帳」/「花泉町史 通史」/「花泉町史資料編」/「老松小学校創立百周年記念誌」/「古民家調査報告書」/「首なし地蔵の物語」京極助三郎/「老松活性化同志会一〇周年記念誌 |
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