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| あふれる情熱と若さで水産学校をよみがえらせる |
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| 野呂喜代吉 |
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ところが、開校した年の十二月に思いがけないことが起きました。水産科担当の先生が、突然退職してしまったのです。水産補習学校なのに水産科を担当する先生がいないのですから、一、二ヵ月を過ぎるころから生徒が一人、二人と退学していくようになりました。そして、翌年の三月には開校時の半分以下にまで減り、廃校の危機に直面してしまいました。 その信頼回復を託された青年が、野呂喜代吉です。喜代吉は、明治六年(一八七三年)三月二十八日、父山本和助、母しげの間に四男として風合瀬村(現在の深浦町大字風合瀬)に生まれました。 野呂の姓を名乗ることになった理由は後で述べますが、喜代吉は弘前の東奥義塾から青森県尋常師範学校に進学しました。喜代吉が晴れて教師となって教壇に立った学校は向陽高等小学校で、二十一歳の春のことです。しかし、ここでの勤務はわずか五ヵ月で、鰺ヶ沢にある西海尋常小学校への転任を命じられました。 鰺ヶ沢は役所や裁判所などが立ち並ぶ郡の中心地で、教育にも熱心な土地柄でした。ここで教師生活四年目を迎えた喜代吉は、五月の末に深浦村への転任をいい渡されます。理由は郡役所の係員から話すということで、喜代吉はうれしいと同時に何かいぶかしい気持ちになりました。 実は、喜代吉はその年の四月、深浦村岡町の野呂家の長女やゑと結婚して婿養子となっていました。これが喜代吉が旧姓山本から野呂姓へ変わった理由です。深浦村への赴任を申し出ていた喜代吉ですが、こんなに早くこの日が来るとは夢にも思わなかったのです。 さて、郡役所へあいさつに行った喜代吉が学務担当から聞かされたのは、深浦水産補習学校の危機を救ってほしいということでした。明治三十年(一八九七年)六月、喜代吉は深浦水産補習学校へ赴任します。二十四歳のときでした。 深浦水産補習学校は三年制で、喜代吉の受持ちは普通科でした。水産科担当の教師は石崎伝三郎(後の深浦町長)でした。一刻も早く学校の立て直しを図りたい喜代吉は、伝三郎から水産学一般と専門知識についての教えを熱心に受けます。そればかりか、村長を始め役場の職員や尋常小学校の職員、村の有識者や村民、さらには多くの保護者から、学校と教師への意見や希望を聞いて回りました。 こうして、喜代吉がすべての情熱を学校改革に注いだおかげで、深浦水産補習学校は目を見張るばかりに生き生きとしてきます。 改革の成果も上がってきました。明治三十一年(一八九八年)、生徒が製造した「かどざめ鮨」を第二回水産博覧会に出品して優等褒状が授与され、この様子は東奥日報でも報じられました。 明治三十二年(一八九九年)には第一回卒業生を送り出し、村は喜びにあふれました。その年の秋には、文部省の白坂視学官が深浦水産補習学校を視察したいと名指しで来校します。 学習や実習の様子を見学して、製造品の一つ一つを手に取って視察した白坂視学官は、学校のすぐれた経営や運営、生徒の実習技能や学校の製造品をほめたたえました。 喜代吉は二十八歳という若さで深浦尋常小学校の校長も務めることになりました。人一倍几帳面な喜代吉は、忙しいにもかかわらず独学で書きためた講義ノートを改良して自作の教授ノートをつくりました。 明治四十一年(一九○八年)、三十五歳になった喜代吉は、とうとう深浦水産補習学校の校長となりました。二つの学校の校長として多忙な毎日でしたが、自作の教授ノートはさらに研究と整理を加えて「深浦水産補習学校水産教科書」として刊行します。 この教科書は、内容がすぐれていることから大正十年(一九二一年)十一月に「自学自習水産教科書」として東京の同文館から刊行され、全国で使用されるようになったのです。その後も昭和十五年(一九四○年)まで継続して発行されました。 ところで、深浦港近くの入前崎には立派な松林があります。これは喜代吉が「海面に影を落とすことで魚を集め、さらに豊富な栄養分を海辺に送ることで動・植物性プランクトンの増殖を図り、それを食べる小魚を集め、やがて各種魚類の群集を実現する」という理論を実践したものです。季節風が吹き荒れる小高い丘に木を根付かせるのは並大抵の努力ではありませんでした。これは、喜代吉と生徒、喜代吉を慕う村人らの手による大事業でした。この松林は、平成五年に「入前崎集魚林」として深浦町指定文化財に指定され、深浦水産補習学校の業績をしのばせています。 |
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【出典、参考文献】 「野呂喜代吉翁傳―水産教育の先駆者―」森山嘉蔵 |
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