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| 太平洋無着陸横断飛行を支えた村人たち | ||||||||||||||
| 旧三沢村の人々 |
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太平洋を飛行機で一気に飛び越えるには、日本から北アメリカ大陸へ約四○○○キロメートルの連続飛行が必要で、まだ通信機が貧弱な時代でしたから、途中でエンジンが不調になって大海原に不時着した場合には、発見や救助される見込みがほとんどないという、まさに命がけの冒険でした。 一九三○年代になって、その挑戦者たちが愛機とともに次々と日本をおとずれました。彼らは離陸の場所として、青森県の三沢村(現在の三沢市)を選んだのです。ここは日本のなかでは北アメリカ大陸に近く、また太平洋に面した南北に長い砂浜が続いていて、その砂浜の地面は固くしまっていたので、舗装工事をしなくても滑走路として使用できたからです。当時はまだ飛行機を見たことがない人がほとんどでしたから、海岸に舞い降りる飛行機の姿を見て三沢村の人たちはとても驚き、自分たちの村が世界記録の挑戦の場所に選ばれたことを大喜びしました。 このことで三沢村の人々は大忙しとなりました。というのは、飛行士の宿泊の世話や、砂浜を平らにして滑走路をつくる工事、海岸までの道路の工事など、飛行機を発進させるためにやらなければならない仕事がたくさんあったからです。特に大変だったのが滑走路づくりでした。太平洋を無着陸で横断するには、飛行機が飛び立てる重さの限界まで大量に燃料を積み込むため、離陸が非常に難しいのです。離陸できるかどうかは、できるだけ平らで加速を付けやすい滑走路が用意できるかどうかにかかっていました。 村長の指導のもと、村人たちは農作業などで忙しかったにもかかわらず、自分の仕事を中断して、滑走路づくりや機体の保管、食事の世話などに励みました。三沢村の人たちは、心から横断飛行の成功と飛行士の無事を祈り、ひたすら協力することを惜しみませんでした。 最初の挑戦者は、アメリカ人の二人組が乗った「タコマ市号」という飛行機でした。「タコマ市号」は、何とか離陸に成功しましたが、排気管から有毒ガスが操縦席にもれ出したため、飛行を断念して霧のなかを引き返し、下北半島に不時着してしまいました。 二番目の挑戦者である、一人のアメリカ退役軍人が乗った「パシフィック号」は、滑走はしたものの重い機体を浮上させることができずに断念しました。 三番目の挑戦者は、若い二人のアメリカ人が乗った「クラシナマッジ号」で、見事に離陸して飛行を続けていましたが、ガソリンもれを起こしてしまい、いったん無人島に着陸し、数日を過ごした後再び飛び立って、小さな村がある島を見つけて着陸しました。そこはベーリング海に浮かぶロシア領の島で、彼らはその後無事に帰国できましたが、太平洋無着陸横断にはなりませんでした。 四番目の挑戦者は、これも二人組のアメリカ人でパングボーンとハーンドンが乗る「ミス・ビードル号」という朱色の飛行機でした。三沢村の村人は、たび重なる挑戦の失敗にもくじけることなく、これまで同様の手厚いもてなしと支援を行いました。 昭和六年(一九三一年)十月四日午前七時一分「ミス・ビードル号」は離陸に成功し、一路アメリカ大陸を目指しました。途中、暴風雨を高く飛ぶことでやり過ごし、寒さと戦いながらも飛行すること四一時間一○分、ついに北アメリカ大陸に達し、現地時間十月五日午前七時十一分、大勢の出迎えの人とパングボーンの母親が待つワシントン州ウェナッチの飛行場に胴体着陸しました。飛行機の車輪と脚は、重量と空気抵抗を減らすため、離陸直後に投下していたのです。 パングボーンとハーンドンは、全米のヒーローとなり、各地で飛行に関する話を求められましたが、その際、必ず日本の三沢村で受けた温かいもてなしと支援について、深く感謝していることを話しました。 第二次世界大戦が間近に迫っていた当時、日米関係は中国における権利をめぐって悪化していましたが、この二人が三沢村の村人の好意について熱心に語ったため、一時的ではありましたが、アメリカ人の日本人に対する見方がとても友好的になりました。 このことをきっかけとして、三沢とウェナッチの人々は、現在もなお、まちをあげて盛んな交流を行っており、日米間の友情を深めているのです。 |
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【出典、参考文献】 「ミス・ビードル、高くゆっくりとまっすぐに翔べ」伊藤功一(グリーンアロー出版) |
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